【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

【2.5、続オヒメサマのキゲン(望月澪)】『カインは言わなかった』


表現者として「得る」ために自ら傷つくことを選ぶ自傷、いや事象。澪についてもう一つだけ話をさせてほしい。
 元もこもない言い方をすれば、結果的に「バレエより男を選んだ」訳だが、じゃあ澪にとってのバレエとはどれほどのものだったか。〈それを決して許さない彼女のエネルギー〉というやつだ。

 

 そもそも「観る側」として豪と出会ったのは、プレイヤーである以上、純粋に学びのためか、あるいは落選により表舞台に立てなかったためか。その心は大別して「希望」か「失意」。全ての始まり、出会ったときの澪の表情。
 豪は斜め後ろに座っていた。表情が見えなければたぶん「この人だ」まで行かない。造作以上に、その表情に創作意欲を掻き立てられたのではないか。〈程よく筋肉のついたしなやかな体をもつモデルを探していた〉というが、考えてみれば、劇場の斜め後ろの席から、座っている澪の全身なんて見えない。



 じゃあ描く側として、希望に満ちたイキイキとした横顔をわざわざ描き出したいと思うか。私なら思わない。描きたいと思うのはむしろ、失意を押し殺して必死で現実と向き合おうとする横顔。そこに言葉に表せない思いが、奥行きが見えるから暴きたくなる。
〈ダメだ、この人のことは自分には描けない〉が、「その人の受けた痛みにシンクロすることができない、それほど深い悲しみを自分は経験したことがない」という意味だとしたら。
「わからない」が響いてくる。わかりようがないのだ。その経験がないから。

 

 一方澪視点で、人には少なからず「こう解釈されたい」自分の像があり、選出した人にこそわからずとも、自分の思いの形跡をわかってくれる人が、しかもわかってほしい形でわかってくれる人が現れたとしたなら、その存在の大きさはどれほどのものか。皮肉なことにバレエに対する思いが強ければ強いほど、この男への依存度も増す。
 観る側を魅せる表現者としてのプライドと、もう強がらなくてもいいと赦されたい女性としての甘え。後に第三者の男から受けた暴力は、その両方に作用した。前者は描くほどに何かを掴み始めた豪に対して新たな表現の幅を広げ、後者は前回も書いた男性性に働きかける。

 

 ただ「storm」自体〈唯一手放さずにいた初期の代表作〉であり、澪は「初期」の段階で陥落していた。けれどそこからタイムラグを挟んで解雇されている以上、澪自身「わかっていてまともに踊っていた期間」は確かに存在して、その期間の長さもまた、澪のバレエへの思いの大きさと言えないか。

 

 たぶん豪は、モデルとして機能しないとなれば、情を挟むことなくサラッと解雇する。そう。仕事は情を挟んだ途端歪む。相手にどう思われるかに重きを置いた瞬間、ぶつかり合って発生していたエネルギーが根こそぎ失われる。ぶつかり合うことで高まるもの、受け入れ合うことで高まるもの、それぞれに自我があり、足元ありきで話は進む。その足元だけは決して失ってはいけないのだ。

 

 

 だからあるいは澪自身、ある時を境に疲れたのかもしれない。肉体的に自分の求めるパフォーマンスには及ばないと、ピークを超えたと思ったのかもしれない。手元に残ったのは出涸らしの思いとボロボロになった足。そうして寄りかかりたくなったのかもしれない。そこに表現者としての足元はなく、それでもここにいてもいいかと、澪は「あの時」聞いていたのかもしれない。

 

 光の満ちた舞台に立てずとも、彼女は彼女でバレエを愛していた。その思いは、だから人の目を引いた。描かれるに値した。そうして時が来て魔法が解けた。本当はただそれだけのこと。シンデレラは何も本の中だけの話だけではない。
 生きとし生ける全ての女性の象徴なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

【次回投稿は12月6日(水)です】