【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

【3、絶対に許せない距離なんてなかった(皆元有美)】『カインは言わなかった』


「親しくなるほどに男性は近づき、女性は離れる」というのは、YouTubeで垂れ流していた心理学で言っていたもので、だからこそ許せない距離というのがある。前回も少し触れたな。今回取り上げる一文、紹介しよう。

 

 

〈『大丈夫だって、この女には指一本触れたことないから』〉

 

 

 基本的に「仕事だ」と言われれば二の句は継げない。何故なら「仕事だから」。恋人だろうと、それは首を突っ込むなという警告。踏み込んじゃいけない領域。仕事が優秀なのはわかる。けれど仕事以上に男としても優秀だとわかるからこそ生じる焦りもある。最も恐ろしいのは、
 この男は自分がどうしたいか、ただその思い一つで全てを手に入れるという事実。

 有美をもって、同じセリフは〈『大丈夫だって、この女には「まだ」指一本触れたことないから』〉に変換される。そのこと自体、豪の彼女という「形だけでもそんな男を独占している自分」という自己肯定感と引き換えに、捨てられる恐怖に怯えていることの象徴だった。明らかにつり合っていない。それは他の誰より有美自身がわかっていることだった。

 

〈『別につき合うってことでいいんだけど、それ人には言わないでね』〉

 

 豪は不審をはぐらかす。ただの性欲処理担当に隣に並ばれても困るのだ。己の全てを賭けたいのは絵であり、自分の枠を超えたミューズなのだ。
 有美に美術はわからない。

 

〈わからないからこそ、何か深いものを感じ取っているかのような顔をし続けてきた。何もわかっていないことに気づかれないように、つまらない人間だと思われないように〉

 

 そうして有美自身は豪の隣にいるのだと思っていた。あまた女性が過去泣きながら自分の元を去ったという豪に、自分だけは去らない、と。
 けれど一方で有美も豪に別れを告げたことがあった。その後、なし崩し的に戻ってしまうが、その時豪は「事あるごとにすぐ離婚を切り出した母親」を例に挙げて有美を嗜めた。

 

〈それは言ったらまずいだろっていう最後の切り札的な言葉なんだけど、母親は本当に簡単に口にするんだよ〉
〈君はもう少し、自分の言葉に責任を持った方がいい〉最終そう切り出した父親の言葉を添えて。

 

 このこと自体、澪の言動にもリンクする。
 最後、澪に対して〈媚びた──まさに、自分自身が感じたように〉という有美の見解。その前に「共犯者」という単語が出てきている以上、前回述べた通り「自分に暴力を振るおうとする男と同じ方向を向くことによって、豪に働きかけようと試みた」と読める。その行動は別れを口にすることによって愛情を確認しようとした自分と重なる。いずれにしても求めたのは執着。
 けれど男には響かない。これが最後だと思ってヤっても、もう女は関係を終える気など無くなっている。豪にとって「ミューズが女としてどうこう」なんてどうでもいい。いいから自分を夢中にするパフォーマンスを披露してくれ。いいから

 

 仕事させてくれよ。徹頭徹尾これがこの男の願いである。

 

 産みたきゃ勝手に産め。俺は知らん、と、本能のままに子種を産みつけて自分のしたいことをする。だから本能に従って「この男ダメだ別れなきゃ」と逃げた女性たちが正解。有美は貧乏くじを宝くじだと信じることで現実を保つ。ここでもまた印象的な一文がある。

〈そうすればきっと、今後はもっと穏やかで安定した、退屈な日々に戻っていたことだろう、と〉

 有美にとって豪は自分の枠を超えた存在であり、自分では生み出せない刺激であり、もはや知らなかった時には戻れない、なくてはならない相手。例えるなら現代人にとってのスマホか。
 便利というかメリットというか、アップスタンダード。そう、アップスタンダードだ。生活水準は下げられない。だから豪以上の男が現れない以上、わかっていても離れることができない。ちなみに豪がまともに付き合っている相手ならまだしも、そうではないため、仮に出会ったとしても相手にされず、それ以前にまず現れようがない。だから本来、時間切れのシンデレラは、自らを直視して、再び足元から築き上げるしか道はないのだ。それら全てすっ飛ばそうとするのが「変わらず豪にしがみつく」行為。だからいつまで経っても相応の幸せが得られない。

 

 ただ、そうして見ると一見有美はすごく不幸な女性に見えるのだが、実際本人の視点ではそこまで不幸という訳ではない。何だかんだ言いつつも結局幸せそうにしている。その根拠は「夢中になること自体が幸せだから」

 

 人は夢見ることで生かされている寂しがりやの生き物、と言うのは、学生時代万葉集を担当していた教授の言っていたこと。だって人生は長い。イベント盛りだくさんならそれなりに退屈せずに済むのだろうけど、いかんせんヒマはどこかに生まれて、人によって趣味に使ったりパチンコに使ったり不倫に使ったりしている。ブラマヨ吉田曰く「何かいいことないかなあ」というのは「恋がしたい」という意味らしい。手っ取り早いヒマ対策、恋をすること。韓流のアイドルに、二次元の推しに、たまに挨拶を交わす隣の部署の先輩に、夢中になってみる。そう。

 夢中になってみること。まず恋がしたいありき。だから近づく必要がない。むしろ近づいた分だけ幻滅する要素が増えていくから、夢見させてよという身勝手な願い。そんな身勝手は、けれど時にとんでもない作品を生むエネルギーになる。だからミューズは必要なのだ。その距離感を理解し得ない有美は、だからお呼びでない。

 

 豪にとって「女を買うってのは違うんだよなあ、と目の前の女押してみたらイケました」な、イージーモードな人生は、ひどく退屈だったのだろう。だからこそ夢中で描いている時の男はきっとクッソイケメンだったに違いない。

 

〈指一本触れない〉ことで夢中にさせる女性。どんな形であれ、この男を完全に手に入れる瞬間のあった女性の存在を、有美は許せなかった。
 そうして2人の女性が狂った。けれど最終、有美も夢から覚める。

 

〈だが、だからこそ、豪を殺したのがあの女ということだけはあってはならなかった〉
〈激しい嵐の中で、それに揺らぐことなく自らの足で踊っていた、唯一無二のミューズ。けれど、その輪郭が揺らいでいく。信じてきたものが──自分自身が〉

 

「その輪郭」というのは、豪を翻弄する、ひいては有美にとって自分がそうなりたいと「信じてきた」憧れ。けれどその実、ミューズもただの女性だった。自分と同じ、壊された側の人間だった。その輪郭は思っていたよりずっと小さかった。

 

 有美にとっての絶対に許せない距離は確かにあった。
 けれどもそれは、人の心がずっと同じではないように、ずっとあり続けたものではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

【2.5、続オヒメサマのキゲン(望月澪)】『カインは言わなかった』


表現者として「得る」ために自ら傷つくことを選ぶ自傷、いや事象。澪についてもう一つだけ話をさせてほしい。
 元もこもない言い方をすれば、結果的に「バレエより男を選んだ」訳だが、じゃあ澪にとってのバレエとはどれほどのものだったか。〈それを決して許さない彼女のエネルギー〉というやつだ。

 

 そもそも「観る側」として豪と出会ったのは、プレイヤーである以上、純粋に学びのためか、あるいは落選により表舞台に立てなかったためか。その心は大別して「希望」か「失意」。全ての始まり、出会ったときの澪の表情。
 豪は斜め後ろに座っていた。表情が見えなければたぶん「この人だ」まで行かない。造作以上に、その表情に創作意欲を掻き立てられたのではないか。〈程よく筋肉のついたしなやかな体をもつモデルを探していた〉というが、考えてみれば、劇場の斜め後ろの席から、座っている澪の全身なんて見えない。



 じゃあ描く側として、希望に満ちたイキイキとした横顔をわざわざ描き出したいと思うか。私なら思わない。描きたいと思うのはむしろ、失意を押し殺して必死で現実と向き合おうとする横顔。そこに言葉に表せない思いが、奥行きが見えるから暴きたくなる。
〈ダメだ、この人のことは自分には描けない〉が、「その人の受けた痛みにシンクロすることができない、それほど深い悲しみを自分は経験したことがない」という意味だとしたら。
「わからない」が響いてくる。わかりようがないのだ。その経験がないから。

 

 一方澪視点で、人には少なからず「こう解釈されたい」自分の像があり、選出した人にこそわからずとも、自分の思いの形跡をわかってくれる人が、しかもわかってほしい形でわかってくれる人が現れたとしたなら、その存在の大きさはどれほどのものか。皮肉なことにバレエに対する思いが強ければ強いほど、この男への依存度も増す。
 観る側を魅せる表現者としてのプライドと、もう強がらなくてもいいと赦されたい女性としての甘え。後に第三者の男から受けた暴力は、その両方に作用した。前者は描くほどに何かを掴み始めた豪に対して新たな表現の幅を広げ、後者は前回も書いた男性性に働きかける。

 

 ただ「storm」自体〈唯一手放さずにいた初期の代表作〉であり、澪は「初期」の段階で陥落していた。けれどそこからタイムラグを挟んで解雇されている以上、澪自身「わかっていてまともに踊っていた期間」は確かに存在して、その期間の長さもまた、澪のバレエへの思いの大きさと言えないか。

 

 たぶん豪は、モデルとして機能しないとなれば、情を挟むことなくサラッと解雇する。そう。仕事は情を挟んだ途端歪む。相手にどう思われるかに重きを置いた瞬間、ぶつかり合って発生していたエネルギーが根こそぎ失われる。ぶつかり合うことで高まるもの、受け入れ合うことで高まるもの、それぞれに自我があり、足元ありきで話は進む。その足元だけは決して失ってはいけないのだ。

 

 

 だからあるいは澪自身、ある時を境に疲れたのかもしれない。肉体的に自分の求めるパフォーマンスには及ばないと、ピークを超えたと思ったのかもしれない。手元に残ったのは出涸らしの思いとボロボロになった足。そうして寄りかかりたくなったのかもしれない。そこに表現者としての足元はなく、それでもここにいてもいいかと、澪は「あの時」聞いていたのかもしれない。

 

 光の満ちた舞台に立てずとも、彼女は彼女でバレエを愛していた。その思いは、だから人の目を引いた。描かれるに値した。そうして時が来て魔法が解けた。本当はただそれだけのこと。シンデレラは何も本の中だけの話だけではない。
 生きとし生ける全ての女性の象徴なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

【次回投稿は12月6日(水)です】

 

【2、オヒメサマのキゲン(望月澪)後編】『カインは言わなかった』

自分にとっての相手と相手にとっての自分。近しければ近しいほど、良好な関係と仮定したとき、果たして豪と澪はどうだったか。ベース男性としての豪は女性に不足しない。豪にとって描くことこそ至上であり、セックスにわざわざ労力を割きたくないのと同列で、彼女、それ以前に異性そのものの優先順位は低い。よってミューズと彼女、この二つは決して相容れず、完全に別腹。


 だから描く上で魅了する存在というのは別格なのだ。「わからない」「描ききれたと思えない」特別なヒト。そもそもミューズとは「作品のモデル兼芸術家の妻や愛人など、インスピレーションの源となる人物」のことを指すというが、一つの解釈として、私は「その世界における象徴」としている。

 

 豪にとってのミューズが澪。じゃあ澪にとっての豪は、と考えた時、ヒントになるのが、最終豪を殺した後、澪が言ったこと。

 

〈「今さらそれを、あなたが言うのかと思いました」〉

 

 豪と戦い、脅かしてさえいた彼女。
 ただ一方的に写し取られるのではなく、彼女自身も生み出していたからこそ、あの絵はあれだけのエネルギーを持っていた。

 

〈『私はずっと、あの絵を守りたかった』〉

 

 まずミューズを探していた豪が澪に近づく。澪視点で「うわ、なんなのこの人」と思った相手が、既にスケッチしていたものを見せる。この段階でモデルを引き受けた以上、それは澪にとって警戒心を上回るレベルだった(ちなみにこの時点ではヌードは断っている)それだけ真剣に自分に声をかけていると思った。
 そこから豪は必死で描く。ムービングモデルとして踊る澪。そこに内蔵されているものを男は知らない。知らないけれど想像して描く。でき上がったものを見る。男の描いた絵は、

 

 きっと澪が思う自分よりも美しかったに違いない。人には少なからず「こう解釈されたい」自分の像がある。その上限ギリギリ、もしくは少し超えたところを描き出したのではないか。
 わかってくれる。自分がわかって欲しいように。
 一方で男は「わからない」と言い続けている。澪自身、一時は翻弄している感覚があったかもしれない。けれどその関係はすぐひっくり返る。
「storm」を見た瞬間、澪は男の雄に当てられた。わかってしまった。指一本触れない男の、自分に向かう欲望を。ムービングモデル。おそらく彼女は以降まともに踊れなくなってしまったのではないか。

 

 一方で「storm」を出展した後、その作品を前に長時間立ち尽くしていた男が澪の後をつけ、暴力を振るう事件があった。澪はそのことを公にしなかった。公にせず、豪にだけ打ち明けた。そこに発生している「媚び」を、彼女である有美だけは見逃さなかった。
「storm」を見てから、豪と「モデルとしてではなく、女性として向き合いたい」と思った澪は、あえて暴力に「応じた」。そうすることで、自分に一切触れることのない豪の気を引こうとした。けれど豪にとっての澪はあくまでモデルであり、その世界を素晴らしいものたらしめる象徴、ミューズなのだ。だからその価値あるムービングに乱れが生じ、雑念が入るとしたら話は違ってくる。需要と供給の不一致。結果澪はモデルの解雇を言い渡される。
 あくまでギブアンドテイクだった関係の一方的な解消に、乗るは年齢。澪はそれを受け入れる代わりに「storm」の譲渡を要求した。

〈今やどの展覧会でも作品が完売する藤谷豪が、唯一手放さずにいた初期の代表作〉であるそれは、澪にとって「男の自分への欲望を閉じ込めた作品」であり、おそらくもう今の自分は得られないものだとわかっていたからこそ、執着した。そうして壊そうとした。
 あの時、あの瞬間発生したもの。自分にとって寄る辺とも言える「最も輝いた一瞬」を閉じ込めた、何より大切な作品を、自分にとってそれだけ価値あるものを、この男も大事に思っているか、それを確認したくて、壊してもいいか聞いた。豪は

 

 

「いいよ」と答えた。

 

 

 男はまだこれからいくらでも創造できる。きっとすぐ新しいミューズを見つけて没頭し、再び数々の作品を世に送り出す。自分の時と同じように、まっすぐ真剣な眼差しで、ブレることない美しさを描き取り、「わからない」と言って笑う。そんなの

 

 許せなかった。絶対に許せなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

朝井リョウさん『正欲』映画感想文(後編)


【3、言うても王道は変わらんぜ?】

 映画の主張としてマイノリティ側からの展開だから、どうしても捻くれて見えがちなのはわかる気がするのだが、いかんせんちょっと偏りが大きいカナというのも印象として残る。
「将来のことを考えて、多少無理にでも学校に行かせた方がいい」という啓喜の主張は王道。決して間違ってはいない。それは私個人が啓喜と似たような脳のつくりをしているのと、イジメられていた側の実体験に基づく(本作では〈学校に行かなくなった〉だけで原因が明記されていないため、一概にイジメによる登校拒否でない可能性はある)
 イジメと一言に言っても、間違いなく逃げた方がいい類から、「それくらいなら何とか頑張れ」という類まで幅広く、そこに周囲の経済、風土、家庭環境、それに個人の性質、いろんな要素が入ってくるから、一概には言えないのは前提として、だからといって小学生から学校に行かないというのは、私も「ちょっと」だった。

 作中、右近と由美と泰希がひとかたまりになっている場面、実際啓喜と3人が直接向き合った訳ではないのだが、同作者『スペードの3』の一節を彷彿とさせた。参考までに紹介する。

 

〈ずるい、と美知代は思った。容姿に恵まれていない、純粋なことだけが取り柄のような弱気な人物が、怯えながらも仲間を増やし顔を上げて立ち向かうだなんて、まるでその中に真実があるみたいだ〉

 

 立場の弱い人物、例えば子供。けれど昨今の子供は少子化の煽りを受けて、ベース「死なないこと」を起点としているために、全体的に過保護な印象がある。自死、他殺を避け、とにかく生き続けることを大前提として、そのために周りがせっせと動く。生きることをお願いする世の中なのだ。現代はいろんな生き方がある、学校に縛られなくてもいい、勉強はどこでもできる、それより自分の興味のある分野を伸ばした方が。どうぞご自由に。
 けれども先にも述べたとおり、根本人は生物として何も変わっていない。だから小手先を変えたところで、いつかは同じ問題にぶつかる。その時成熟して対応できればいいのだが、一度逃げた「苦手意識」と、その時何かしら対処して失敗していれば別のやり方を考えたかもしれない「指針ゼロ」は結構大きい。あとは「自分が自分さえ良ければいいと思って行動している」ことを自覚せずに行動することは、対人関係に軋轢を生みやすい。依存は良くないが、複数でなければ回せない仕事の方が利益を生みやすいのは事実。結局はどこまで行っても人なのだ。

 だからたまに相手を重んじるために堂々子供を叱りつける親を見ると、すごいなと思う。将来を見据えて、本当にその子にとっていいことを迷わず優先する。だから周りも重きを置く。「大丈夫」と言う。このコミュニケーションは、敬意を根にもつ。知らずその子は幸せを願われる。

 

【4、「あれ、桐生さんがやったの?」って私が言われたかった】

 あとは私にとって初見の役者さん達がよかった(もちろん吾郎ちゃんやガッキーも良かった)
 大也役の佐藤寛太さん、劇団EXILEなのね。知識ゼロの私にはそのダンスの良さは分からなかったけど、目がすごく印象的だった。公式サイトのコメントも大人。ピックアップされた恋愛ものの作品の画像より、こっちの方が「らしく」見えたのは、本業に近いからなのかしら。初見の戯言です。
 八重子役の東野絢香さん、役としてちゃんとキモかった(ベタ褒め)八重子は絶妙に、ちゃんとキモくなくちゃいけないの。これガチのかわいい子やってたらミスコン反対とかうるせえってなるからね。唾飛ばしながら主張するの、ああいいね、八重子だねえって見てた(ベタ褒め)

 

 最後に、佳道役の磯村勇斗さん、この人本当に何なの超かわいかった。原作そのままだった。たどたどしてるのとか、目合ってるのに合わない感じとか、きちんと線を引いてるのとかすごい佳道だった。佳道本人だった。喋り方といい、表情といい、空前絶後の佳道だった(いい加減にしろよ)
 だからこそパカって心を開いた時の「くる?」で死んだ(原作にこのセリフはない)すぐに「手を組みませんか?」って敬語で距離を取り直すのとかも絶妙すぎる。あれこそ、押せば引かれるから、押して引いてみる戦法だよ。やめろ。翻弄されるばかりだ尊い
 個人的には、あれ、ヤキモチからでしょうね、夏月が佳道家の窓ガラスぶち破るの。最初意味分かんなかったんだけど、佳道の「あれ、桐生さんがやったの?」で理解した。その後夏月がごめんなさいってベッドの上で土下座するんだけど、あのやりとりは羨ましいと思った。とんでもないことやらかして赦されるまでが1セット。佳道の聞き方一つで、そうだと白状しても赦されるのは分かった。盛大にやらかしても大丈夫だと思えるのは、相手の器量、人間性にも依るが、単純に安心する。
 朝井リョウさんの作品の中で最も好きな佳道を、見事演じ切って下さった磯村さんには、でっかい声でお礼を言います。ありがとう!!!!

 

【終わりに】

 いつまで上映するんだろう。
 この記事を読むのはもう観終わってる人がほとんどだと思うけど、もしまだ小説だけだったら是否観て欲しいな。原作を補填するような、やっぱり映像はすごいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2、オヒメサマのキゲン(望月澪)前編】『カインは言わなかった』

表現者として「得る」ために自ら傷つくことを選ぶ事象、いや自傷
 私自身、小説を書く上で、自らが幸せであってはならないと思っていた時期があった。不幸の中にいた方が感性が研ぎ澄まされ、いい作品が生まれやすい感覚があった。

 

 あ、こっから先特に、あくまで個人の感想解釈だからね。だいぶ潜った分曲解してる可能性あるから先に言っとくね。
 まずもって「望月って誰」の説明から入る。望月澪。作中、画家の藤谷豪という男が出てくる。カイン主演の藤谷誠と父親違いの兄弟で、フランス人の父親を持つ超絶美男だ。この男が心酔したミューズであり、誠の公演を観に行った豪の斜め前の席に座っていたのが彼女だった。

 

 

〈あまりにイメージにぴったりだったんですよ〉

 


 元々豪は程よく筋肉のついたしなやかな体をもつモデルを探していた。

〈でも、描き始めてすぐに失敗だったと思いました。ダメだ、この人のことは自分には描けないと〉

 描けば描くほど、イメージから遠ざかっていく。違う、こうじゃないというのはわかるのに、じゃあどうすれば近づけるのかがわからない。

〈負けたと思いました。彼女のムービングポーズは、それ自体が既に表現として完成されていた。自分の表現の中に彼女を取り込んで解釈しようとするのに、気づけば彼女の表現に引きずり込まれていたんです〉

 

 可動域。人は自分の大きさ以上のことはできない。10だとして10解釈することもできない。できるのは8や7。余裕を持って把握できるだけ。イメージは測りの針。振り切ったら10は本当に10かなんてわからない。それ以上はそれ以上ということ以外何もわからない。
 相手をいくつとするかは当事者の主観に依り、そこに外的な評価を求めるとき、客観性も必要になってくるが、少なくとも2人の間では自分にとっての相手は自由に評価をつけられる。そうしてこの時、モデルとしての望月澪は、画家としての藤谷豪の容量を大きく上回っていた。
「わからない」というのは執着の一種。正しくは「わかりたいのにわからない」自分にはないものを持っていて、強烈に惹かれるものの、近づき方がわからない。近づこうとすればするほど遠ざかっていく。豪はだから、スケッチをした。

 

〈自分の中に形を取り込んでいくことができなくなって、どんどんデッサンまで狂っていって、強い恐怖を感じ〉たからこそ、〈何十枚も何百枚もスケッチし、彼女が帰ってからも大量のスケッチの中で手を動かし続けた〉


 いつだったか書いたな。人は発散する時に快感を得るという。歌う、描く、思いを口にする。豪にとっては「描く」だった。そうして高校生の頃から予備校で日常的にヌードを描いてきた男が、彼女の裸を前にして初めて動揺する。後に男はそのことを〈自分が彼女に対してしていることの暴力性に気づかされた〉としている。
 暴力性。それは隠語。レイプが発生した時にも同じく「暴力」という表現がされる。それは観ている側にも伝わる。伝わってしまう。豪の彼女である有美もまた気づいた。画家である男の表現。その絵から感じたのは「監禁」であり「執着」。
「storm(嵐)」とタイトルのつけられたその作品内では〈彼女を画布の中に閉じ込めようとする豪の暴力行動と、それを決して許さない彼女のエネルギー〉の無音の戦いが繰り広げられていた。

 

〈何枚描いても、彼女を描ききれたとは思えない。わからないからこそ執着してしまう。彼女は特別な存在なんです〉

 

 それはさながら「降参」と両手を挙げるかのよう。負けたにも関わらず、その表情はどこまでも晴れやか。

 


 豪はモデルを探していた。けれど〈美術モデルの事務所に登録しているモデルは使いたくな〉かった。その感性はどこか「女を買うってのは違うんだよなあ」というのに近い。容姿に優れた豪は女性に不足しなかった。けれどだからこそ自ら追いたい、描きたいと思いたかった。ただ夢中になりたかった。そういう対象を、「絶対に手に入らないミューズ」を、「勝てねえ」と言える相手を探していた。

 

 さて、いい加減「あれ、今回豪の回だっけ?」というのはごもっともで、けれどもこれは望月澪を語る上で必要な前置き。これから本題に入る(ウソだろ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【次回投稿は11月30日(木)です】

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朝井リョウさん『正欲』映画感想文(前編)


映画化って時間制限あるから作品本体にメスを入れなきゃいけなくなるのは分かるんだけど、時にそれで歪んじゃったり、そうじゃないんだけどなあって違和感が残ることがあって、でも今回『正欲』にそれは見られなかった。

 全てを語らなくても単語でトラウマを表現する八重子のやり方上手いし、意識高い系のよし香や優芽の話の進め方を挟むことで八重子の属している環境が一瞬で把握できたし、本来質問には答えられない立場である啓喜の「調停中です」のつぶやきも刺さったし、このラストもこれはこれで充分アリだと思った。総じて全く違和感なく、映像自体もキレイで、とても良かった。
 そんな訳でちょっくら感想文するね。

 

 

 

【導入、ガッキー頑張れの話】

 夏月が全体通して薄めのメイクだったのが、最後啓喜と対面した時、ガッツリメイクしていたのが印象的だった。戦うと決めた時、やっぱムーンプリズムパワー関係なくメイクアップするんだなと思った。

 本作では何を言われても言い返さず、別に捌け口を見出していた夏月が、映画ではわずかながら言い返していて、思わず「頑張れ」と手に汗握った。元々音を引きずり出すためとはいえ、この一方的に言われ続けるシーンは、すぐ言っちゃう私には酷くストレスで、よく耐えられるなあと思っていた。これは夏月だけでなく大也にも言えること。

 

【1、キモくても自覚していれば大丈夫です】

 大也で思い出した。本作において神戸八重子は私が最も苦手とするキャラクターで(多分同族嫌悪)物語終盤に差し掛かるまで(あくまでキャラクターとして)「キモ」と思っていたが、最後自分の思いを主張する場面、主張を終えた八重子が後退りながら「自分が一番キモい」って自嘲した瞬間、ふと私の中の何かが和らいだ気がした。
 本作では「八重子個人にとっての正しさをひたすら押し付け、思わぬ反撃で半強制的に「聞か」され、それでも尚きちんと受け取らず、聞いた風を装って自己主張し続ける」感じだったが、映画ではふと我に返ってもう一度考え直す様が見られた。

 誰しも自分の正義を持っている。それぞれにバックボーンがあり、基本的にそのどれも間違っていない。だから大事なのは伝え方、伝えようとする本人の在り方。この人の言うことなら聞こうと思われるかどうか。同じことを言ってもスッと受け入れられる人と、互いの間にギュッとブレーキの生じる人がいる。
 自然の摂理。人にはホメオスタシスが備わっている。一般的に主張すれば引かれ、逆に引くことで引き出すことができる。八重子は自分を主張することで押し付けた烏滸がましさを恥じた。だから「大丈夫」が引き摺り出された。
 自分を晒すのは勇気がいる。否定されようものなら一生ものの傷になる。その「大丈夫」は、そんな勇気に対しての敬意と、発することでバランスを崩しかけている人を支えようという無意識の思いを根にもつ。

 伝え方、その人との関わり方、最低限の足場さえ構築できたなら、主張自体はしていいのだ。ただ、熱量の高い思いは圧倒的に感情を伴う。だから返ってくるものにも多分に感情の要素が含まれる。それを受け止める覚悟の上で話を始めることをお勧めする。何の話だコレ。

 

【2、基本対等に話ができない人は無神経説】

 同じ「『自分には理解できない人』のケースを取り上げ、問題提起して終わる最後」、本作では〈両目を善意で輝かせた友人が“頭おかしい人の暴走”と断じたニュースは〉という文言が入ってくる。第三者の主張と当事者の主張は、同じ事象を挟んでも違って、自分に都合のいいところだけを引き抜いて話をすることを〈目に見えるゴミ捨てて綺麗な花飾ってわーい時代のアップデートだって喜〉んでるって大也は言ってるのかな。

 スマホ持ったって根本人は生物として何も変わっていない。令和だって人身売買は現在進行形で行われているし、戦争は無くならないし、資金繰りに奔走して必死で生きてる。いきなり何かをできるようになる訳ないのに「理解してあげる」という謎の自己肯定感で近づく、あまねくそれは言い訳に過ぎないと言うのが個人の見解。

 おそらくその人は自分の輪郭を正確に把握できていない。人1人分きちんと満たせない人間が手を伸ばすのは、むしろ浮き輪を求めているからだ。特に立場が弱い内は気をつけた方がいい。そう。「〜してあげる」というのは美しくない。だから互いの間に何かギュッとブレーキが生じるのを感じたら止まる。そこでkeep out無視してアクセル踏み込むから事故が起こるのだ。自覚すればまだいいが、轢き逃げは立派な罪だ。知らず犯罪者になっていることもあり得る。

 

 

 

 

 

 

 

【1、コップ一杯分の水(尾上和馬)】『カインは言わなかった』

作中印象的なのは「誰かと比べて劣る自分」
 憐憫の情はかけられない。不相応だけど成立するなんてこともない。主演と比べられる自分、ミューズと比べられる自分。同性異性関係なく、「その筋」において不足する自分。ここに、全てに共通する一つの答えが投げ込まれる。主演の代役を叩き込まれている尾上が受けたセリフだ。紹介しよう。

 

 

〈「お前は藤谷ほど動きの語彙力があるのか」〉
〈「だからお前は根性がないんだ。何でもすぐにわかった気になって目を逸らしてしまうから、語彙が増えない。お前の寡黙な踊りは誰にも何も伝えない」〉

 

 

 ドキッとする。端的に言えば「考えなし」
 言い切ってしまうのはラクなのだ。その先を考えなくて済むから。けれど安易にそうすることによって、「本当は必要だった部分も一緒に切り捨てて」しまう可能性が出てくる。切り捨てる部分を無くすことはできずとも、極力減らすことはできる。突き詰めて考えることで、その人の表現が洗練されていく。

 

 先にも述べたが深くなるほどに苦しくなり、孤独になる。例えば最近映画化された『正欲』。書き切るまでの朝井リョウさんの孤独を思う。けれどだから作品としての価値が生まれ、金銭授受が発生する。「そのこと」に時間をかけるのを、選ぶのは自分で、誰も強制なんてしない。そうして選択肢が無限にあるからこそ、比較対象自体が少ないために、そこまで突き詰めなくても何となくそれなりのものに見えることもある。
 そのことがわかったから真っ直ぐに堪えた。例えば一つの課題を与えられた時、ノータイムで「こうだ」として走り始めること。「どんな意図があって」「どんな技術が欲しくて」「そのために必要なのはどこの筋力で」「じゃあ何のトレーニングから始めればいいのか」それら全てをすっ飛ばして「こう?」とすぐさま踊ってみせること。その浅はかさ。それで苦笑いされて「真面目にやってるのに」と憤るのは筋違いも甚だしい。そう。

 

 バレている。その道に精通している人からすれば、その差は歴然。付け焼き刃。寄る辺アリナシ。偶然必然。評価は、だから評価する側が持つ寄る辺に沿ってつけられたもの。一定の基準を満たすか否か。満たすというのはコップ一杯の水。気泡が多ければ当然見合わない。表面が波立つことなく、きちんと一杯分の水。計量。それは変わることのない質量。
 金太郎飴と評された尾上の演技。男は与えられた課題に対し、すぐさま踊り始めていた。

 

〈知ってるか? 金太郎飴。切っても切っても同じ顔、顔、顔〉

 

「同じ」と称されたのは、だから理解の深度。表面の何をいじったところで、見る人が見れば同じものにしか見えない。何より大事なのはまずきちんと受け取ることだった。

 

 尾上には高いベースがあった。元々体操をやっていたために、踊りに必要な身体、幹はできていた。充分な素材はあったのだ。それに気づいた尾上は、だからそっちに向かって努力を始めた。

 

 エピローグ、冒頭で「カイン」について評論されていた続きが描かれる。この作品の本当の主人公の名はそこに記されている。

 

 

 

 

 

 

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【次回投稿は11月29日(水)です】