【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

【3、絶対に許せない距離なんてなかった(皆元有美)】『カインは言わなかった』


「親しくなるほどに男性は近づき、女性は離れる」というのは、YouTubeで垂れ流していた心理学で言っていたもので、だからこそ許せない距離というのがある。前回も少し触れたな。今回取り上げる一文、紹介しよう。

 

 

〈『大丈夫だって、この女には指一本触れたことないから』〉

 

 

 基本的に「仕事だ」と言われれば二の句は継げない。何故なら「仕事だから」。恋人だろうと、それは首を突っ込むなという警告。踏み込んじゃいけない領域。仕事が優秀なのはわかる。けれど仕事以上に男としても優秀だとわかるからこそ生じる焦りもある。最も恐ろしいのは、
 この男は自分がどうしたいか、ただその思い一つで全てを手に入れるという事実。

 有美をもって、同じセリフは〈『大丈夫だって、この女には「まだ」指一本触れたことないから』〉に変換される。そのこと自体、豪の彼女という「形だけでもそんな男を独占している自分」という自己肯定感と引き換えに、捨てられる恐怖に怯えていることの象徴だった。明らかにつり合っていない。それは他の誰より有美自身がわかっていることだった。

 

〈『別につき合うってことでいいんだけど、それ人には言わないでね』〉

 

 豪は不審をはぐらかす。ただの性欲処理担当に隣に並ばれても困るのだ。己の全てを賭けたいのは絵であり、自分の枠を超えたミューズなのだ。
 有美に美術はわからない。

 

〈わからないからこそ、何か深いものを感じ取っているかのような顔をし続けてきた。何もわかっていないことに気づかれないように、つまらない人間だと思われないように〉

 

 そうして有美自身は豪の隣にいるのだと思っていた。あまた女性が過去泣きながら自分の元を去ったという豪に、自分だけは去らない、と。
 けれど一方で有美も豪に別れを告げたことがあった。その後、なし崩し的に戻ってしまうが、その時豪は「事あるごとにすぐ離婚を切り出した母親」を例に挙げて有美を嗜めた。

 

〈それは言ったらまずいだろっていう最後の切り札的な言葉なんだけど、母親は本当に簡単に口にするんだよ〉
〈君はもう少し、自分の言葉に責任を持った方がいい〉最終そう切り出した父親の言葉を添えて。

 

 このこと自体、澪の言動にもリンクする。
 最後、澪に対して〈媚びた──まさに、自分自身が感じたように〉という有美の見解。その前に「共犯者」という単語が出てきている以上、前回述べた通り「自分に暴力を振るおうとする男と同じ方向を向くことによって、豪に働きかけようと試みた」と読める。その行動は別れを口にすることによって愛情を確認しようとした自分と重なる。いずれにしても求めたのは執着。
 けれど男には響かない。これが最後だと思ってヤっても、もう女は関係を終える気など無くなっている。豪にとって「ミューズが女としてどうこう」なんてどうでもいい。いいから自分を夢中にするパフォーマンスを披露してくれ。いいから

 

 仕事させてくれよ。徹頭徹尾これがこの男の願いである。

 

 産みたきゃ勝手に産め。俺は知らん、と、本能のままに子種を産みつけて自分のしたいことをする。だから本能に従って「この男ダメだ別れなきゃ」と逃げた女性たちが正解。有美は貧乏くじを宝くじだと信じることで現実を保つ。ここでもまた印象的な一文がある。

〈そうすればきっと、今後はもっと穏やかで安定した、退屈な日々に戻っていたことだろう、と〉

 有美にとって豪は自分の枠を超えた存在であり、自分では生み出せない刺激であり、もはや知らなかった時には戻れない、なくてはならない相手。例えるなら現代人にとってのスマホか。
 便利というかメリットというか、アップスタンダード。そう、アップスタンダードだ。生活水準は下げられない。だから豪以上の男が現れない以上、わかっていても離れることができない。ちなみに豪がまともに付き合っている相手ならまだしも、そうではないため、仮に出会ったとしても相手にされず、それ以前にまず現れようがない。だから本来、時間切れのシンデレラは、自らを直視して、再び足元から築き上げるしか道はないのだ。それら全てすっ飛ばそうとするのが「変わらず豪にしがみつく」行為。だからいつまで経っても相応の幸せが得られない。

 

 ただ、そうして見ると一見有美はすごく不幸な女性に見えるのだが、実際本人の視点ではそこまで不幸という訳ではない。何だかんだ言いつつも結局幸せそうにしている。その根拠は「夢中になること自体が幸せだから」

 

 人は夢見ることで生かされている寂しがりやの生き物、と言うのは、学生時代万葉集を担当していた教授の言っていたこと。だって人生は長い。イベント盛りだくさんならそれなりに退屈せずに済むのだろうけど、いかんせんヒマはどこかに生まれて、人によって趣味に使ったりパチンコに使ったり不倫に使ったりしている。ブラマヨ吉田曰く「何かいいことないかなあ」というのは「恋がしたい」という意味らしい。手っ取り早いヒマ対策、恋をすること。韓流のアイドルに、二次元の推しに、たまに挨拶を交わす隣の部署の先輩に、夢中になってみる。そう。

 夢中になってみること。まず恋がしたいありき。だから近づく必要がない。むしろ近づいた分だけ幻滅する要素が増えていくから、夢見させてよという身勝手な願い。そんな身勝手は、けれど時にとんでもない作品を生むエネルギーになる。だからミューズは必要なのだ。その距離感を理解し得ない有美は、だからお呼びでない。

 

 豪にとって「女を買うってのは違うんだよなあ、と目の前の女押してみたらイケました」な、イージーモードな人生は、ひどく退屈だったのだろう。だからこそ夢中で描いている時の男はきっとクッソイケメンだったに違いない。

 

〈指一本触れない〉ことで夢中にさせる女性。どんな形であれ、この男を完全に手に入れる瞬間のあった女性の存在を、有美は許せなかった。
 そうして2人の女性が狂った。けれど最終、有美も夢から覚める。

 

〈だが、だからこそ、豪を殺したのがあの女ということだけはあってはならなかった〉
〈激しい嵐の中で、それに揺らぐことなく自らの足で踊っていた、唯一無二のミューズ。けれど、その輪郭が揺らいでいく。信じてきたものが──自分自身が〉

 

「その輪郭」というのは、豪を翻弄する、ひいては有美にとって自分がそうなりたいと「信じてきた」憧れ。けれどその実、ミューズもただの女性だった。自分と同じ、壊された側の人間だった。その輪郭は思っていたよりずっと小さかった。

 

 有美にとっての絶対に許せない距離は確かにあった。
 けれどもそれは、人の心がずっと同じではないように、ずっとあり続けたものではなかったのだ。