【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

【2、オヒメサマのキゲン(望月澪)前編】『カインは言わなかった』

表現者として「得る」ために自ら傷つくことを選ぶ事象、いや自傷
 私自身、小説を書く上で、自らが幸せであってはならないと思っていた時期があった。不幸の中にいた方が感性が研ぎ澄まされ、いい作品が生まれやすい感覚があった。

 

 あ、こっから先特に、あくまで個人の感想解釈だからね。だいぶ潜った分曲解してる可能性あるから先に言っとくね。
 まずもって「望月って誰」の説明から入る。望月澪。作中、画家の藤谷豪という男が出てくる。カイン主演の藤谷誠と父親違いの兄弟で、フランス人の父親を持つ超絶美男だ。この男が心酔したミューズであり、誠の公演を観に行った豪の斜め前の席に座っていたのが彼女だった。

 

 

〈あまりにイメージにぴったりだったんですよ〉

 


 元々豪は程よく筋肉のついたしなやかな体をもつモデルを探していた。

〈でも、描き始めてすぐに失敗だったと思いました。ダメだ、この人のことは自分には描けないと〉

 描けば描くほど、イメージから遠ざかっていく。違う、こうじゃないというのはわかるのに、じゃあどうすれば近づけるのかがわからない。

〈負けたと思いました。彼女のムービングポーズは、それ自体が既に表現として完成されていた。自分の表現の中に彼女を取り込んで解釈しようとするのに、気づけば彼女の表現に引きずり込まれていたんです〉

 

 可動域。人は自分の大きさ以上のことはできない。10だとして10解釈することもできない。できるのは8や7。余裕を持って把握できるだけ。イメージは測りの針。振り切ったら10は本当に10かなんてわからない。それ以上はそれ以上ということ以外何もわからない。
 相手をいくつとするかは当事者の主観に依り、そこに外的な評価を求めるとき、客観性も必要になってくるが、少なくとも2人の間では自分にとっての相手は自由に評価をつけられる。そうしてこの時、モデルとしての望月澪は、画家としての藤谷豪の容量を大きく上回っていた。
「わからない」というのは執着の一種。正しくは「わかりたいのにわからない」自分にはないものを持っていて、強烈に惹かれるものの、近づき方がわからない。近づこうとすればするほど遠ざかっていく。豪はだから、スケッチをした。

 

〈自分の中に形を取り込んでいくことができなくなって、どんどんデッサンまで狂っていって、強い恐怖を感じ〉たからこそ、〈何十枚も何百枚もスケッチし、彼女が帰ってからも大量のスケッチの中で手を動かし続けた〉


 いつだったか書いたな。人は発散する時に快感を得るという。歌う、描く、思いを口にする。豪にとっては「描く」だった。そうして高校生の頃から予備校で日常的にヌードを描いてきた男が、彼女の裸を前にして初めて動揺する。後に男はそのことを〈自分が彼女に対してしていることの暴力性に気づかされた〉としている。
 暴力性。それは隠語。レイプが発生した時にも同じく「暴力」という表現がされる。それは観ている側にも伝わる。伝わってしまう。豪の彼女である有美もまた気づいた。画家である男の表現。その絵から感じたのは「監禁」であり「執着」。
「storm(嵐)」とタイトルのつけられたその作品内では〈彼女を画布の中に閉じ込めようとする豪の暴力行動と、それを決して許さない彼女のエネルギー〉の無音の戦いが繰り広げられていた。

 

〈何枚描いても、彼女を描ききれたとは思えない。わからないからこそ執着してしまう。彼女は特別な存在なんです〉

 

 それはさながら「降参」と両手を挙げるかのよう。負けたにも関わらず、その表情はどこまでも晴れやか。

 


 豪はモデルを探していた。けれど〈美術モデルの事務所に登録しているモデルは使いたくな〉かった。その感性はどこか「女を買うってのは違うんだよなあ」というのに近い。容姿に優れた豪は女性に不足しなかった。けれどだからこそ自ら追いたい、描きたいと思いたかった。ただ夢中になりたかった。そういう対象を、「絶対に手に入らないミューズ」を、「勝てねえ」と言える相手を探していた。

 

 さて、いい加減「あれ、今回豪の回だっけ?」というのはごもっともで、けれどもこれは望月澪を語る上で必要な前置き。これから本題に入る(ウソだろ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【次回投稿は11月30日(木)です】

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