【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

自由研究と読書感想文をいっぺんに終わらせてやんよ【5、愛】

過去に一度だけ「愛してる」と言ったことがある。恋愛の仕方は愚か、まともな人との付き合い方、つながり方さえ知らぬまま、互いを傷つけることでしか成り立てなかった恋のど真ん中。
 結論から言おう。ドン滑りした。「それ」は、口にした瞬間、屋根まで飛んで壊れて消え、自分の番号を見つけられなかった受験生でさえ黙って上着をかけてくれるレベルの代物だった。

 

 だから「愛」とは恐ろしい。いや、この場合正確には「『愛してる』と発言することで発生する、あのえも言われぬ居た堪れない空気恐ろしい」ということなのだが、兎にも角にも「愛」とは安易に手を出してはいけない危険物であると、あの時私は身をもって認識した。

 さて、本題に入る。今回は少し長くなるが、これで終わりなので、是非最後までお付き合いいただきたい。



【抽出】
『地獄の楽しみ方』より
〈愛憎はともに執着のうちですからね〉
〈「愛」という言葉を使うことで、実にクリーンで崇高なものに感じられてしまうんですね。これ、言葉のマジックです。「愛」は危ないですね。最初に言いましたが、自分の気持ちを言葉に置きかえると、その言葉があらわすもの以外のものが全部捨てられてしまいます〉
〈「愛」のような言葉のせいで、多くの日本語が死滅しかけているんです。他の言葉に言い換えてみましょう。違う言葉のほうが伝わるかもしれないし、そのほうがより自分の気持ちに近いかもしれないじゃないですか〉
フェルマーの料理』(2巻)
〈海! フィレ肉に熱が入ったぞ 焼きの仕上げに入っていいか!?〉
〈初めて会った時の 北田くんあなたは 私の…本当に最初の最初数学にのめりこんだ最初の動機「楽しい」それだけを持ち続けてられる人だった 乖離していく世界 周りの人たち それを 「切り離してやる」 
 それを意識してる時点で私は数学に没入できてないと気付かされる程に
「楽しい」だけに支配されたあなたは 無敵でした〉

 

 

「愛」は執着。言われてみればまさにその通り。元々「愛憎」は明度の高いものと低いもののコントラストだと思っていたが、「これだけしてあげてるのに」という個の都合は、回収を前提とした立派な執着。ひっくり返るも何も、始めから隣にあったという方が、感覚として正しい。
 この理屈でいくと、執着がなくなれば憎しみも消失するということになる。確かにどうでもいい相手に対して憎んだり恨んだり、わざわざエネルギーなんて使わない。そう、ここにポイントはあった。

 

 私が以前ドン滑りしたあの時、仮に「互いを疑うことのない時期」で、「互いに目一杯執着していた」なら、結果は全く違ったものになっていただろう。いけなかったのは「年月が経ち、別れ話がチラつき始めていたにも関わらず、何か盛り上がったから、兼ねてから言ってみたかったことを、その場のノリで言ってみた」こと。こんな不純な動機から発された音が、本来言葉の持つ重みに耐えきれなかった。だから受け取られることなく、ただ壊れて消えた。それだけのことだった。

 

 時にこのことは、わざわざ「愛」を経由せずとも起こり得る。
「恋人なのに、最も近しい関係のはずなのに、どうして分かってくれないの?」
 そこに生ずる、想いと心拍数の落差。実際の関係以上のことを、言葉として求めてしまうことで、能動であったはずのことが義務になる。「互いにこれだけの関係でなければならない」という、それこそ執着に成り代わる。だからやっぱり「愛」は危険物。もはや「」無くして世に出してはいけない。そのために、怪我をしないために頭を使うのだ。ここで後者の抽出に焦点を当てる。
 漫画である本作の最も大事な「絵」を、これまで引き合いに出さなかったのは、ともすれば簡単に消費されやすいもので、作者が必死で描き上げたものを、何のキックバックもなしにホイホイ使うことが躊躇われたからである。最後だから、魅力的だから、最後だけ勘弁して欲しい。

 

フェルマーの料理』(2巻)より

 本当に没入したい時、周りが一切見えなくなる。周りが自分をどう見ようと、一切どうでも良くなる。他方に散らす神経はなくなり、ただ目の前の一点にのみ全神経を注ぐ。その様は、さながら動物で言う狩り。その獲物を捕らえられるか否かで、食えるかどうか、ひいては生きるか死ぬかを分かつ。真剣勝負。その目は対象しか見ない。その瞬間、同じ世界に何十億人生きていようと、その人の世界は「それ」とその人だけになり、「それ」はその人にとっての生命線にも成り得る。
 ただ、「それ」に「自分を生かすもの」として執着するかと言ったらそうではない。それは紛れもない「愛」の権化であるにも関わらずだ。「それ」は、その人がそれまで積み上げてきたものの真骨頂、その人自身。だからだ。

 

 自分自身に執着は発生しない。だからその人が心血注いだものは、既に己の枠を逸脱して、己の分身として世に放たれている。それは絶対的なプロの所業であり、「愛」と称される時に受ける、本来持つあたたかな感覚を思い出す。「人」や「物」に依存しない愛。己の努力によって得た技術、それを通じた対象への愛は、賛美の対象になる。必要なのは「正面切って向き合い、指をさして、己の正しさを押し付けること」ではない。ただ「隣に並んで、異なる感性を認め合うこと」だった。そのために、何より己を成熟させることが大事だった。
 私にとっての「愛してる」、結果的に傷つけ合うことは多かったが、それでも共に過ごした時間はかけがえのないもの。間違いなくその人のおかげで今の私は在るし、今でも感謝している。そう。愛ではなく感謝。この方が圧倒的におさまりがいい。

 

 愛は危険物。でも、資格はなくとも、自分が相応でありさえすれば、取り込み、飼い慣らすことができるようになるのかもしれない。赤の他人であったはずの人と、本当の意味でつながることができるようになるのかもしれない。

 

 そんな希望に満ちた愛の話。

 

 

【了】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S.余談だが『フェルマーの料理』(3巻)には愛を模した一枚絵が掲載されている。本気で惚れた男性と関係を持った後に見せる顔だ。私自身、見た瞬間他人事とは思えぬ程動揺した。もののけ姫のサンが映画の作中ワンシーンで見せたものに近い。
 正直この一枚絵がこの自由研究を始めるきっかけになった。実物なしに、ただ「いいんだよ!」と言ったところで何も伝わらないので、随分回りくどくなったが、あなたに伝わればいい。いかんせん漫画の魅力を文字に収めようとしたところで限界がある。
 まだ3巻。是非実際手にとって見ていただきたい。