【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

【理想の愛を生きる】谷崎潤一郎『春琴抄』(後編)

あくまでこれも推測に過ぎないが、春琴の家の周りに「艶かしい店は近くにない」とわざわざ断りを入れていて、例えば実践に及ぶことはなくとも、客相手の商売としての「琴」「三味線」という見方をした時、佐助は始め「練習相手」だったのではないかとも思う。何せ元々「ただの手」だった位だ。そういう意味でようやくマゾヒズムの概念が出てくる。これは「本来言葉の持つ意味」というよりは「先行する印象に限りなく近づく」といった意味でだ。

 

 この後、訳あって佐助自身も40歳で盲目になる。この時の二人のやりとりは、是非実際に読んでいただきたいので割愛する。この作品のクライマックスだ。
 興味深いのはその後、立場が逆転すること。絶対の主人であったはずの春琴の態度に翳りが見え始める。それは必ずしも顔面に負った怪我のせいだけではなく、老いと共に訪れる分かりやすい価値の下落も重なる。見た目がいくら20代後半とて春琴も30代後半。測らずとも今まで美貌を武器にしてきた分、その価値が失われることに耐えられず、ふと弱みを見せるようになる。
 そんな時、佐助は取り合わなかった。取り合わない、と表現すると冷たく聞こえるが、本質はそうだ。ここでようやく佐助の本性が見えてくる。佐助にとっての春琴もまた一種の自己実現だった。主家に仕える丁稚という身分でありながら、主人の気まぐれに環境が重なり、最終盲目の最高位検校の位を与えられるまでになった。それは常に手本であり続けた春琴の功績も大きく、そのためにそんな目標がいたずらに変わってしまうことを望まなかった。現に結婚の話に折れ始めた春琴に対して頑なに拒んだのは佐助の側だったという。

 

「自分の憧れた人は、自分なんかと結婚しない」

 

 そんな、もはや現実ではない架空の春琴を存命時から見るようになっていった。既に本人も盲目なのだ。彼にとって本人さえ強く、気高いままでいてくれたらいい。

 

 もちろん想いあってのことに違いないが、あるいは自分の失った(春琴に与えた)ものの代償としての感覚が無意識に働いているのかもしれない。だからこそ二人にとっての最深は、佐助自身が盲目になったその時に集約される。一時の満足は、けれども一方でこれ以上深く潜れない、行き止まりだと気づく手立てにもなってしまった。

冷静になったのは春琴。冷静になるのを拒んだのが佐助。その明暗が深まる前に程無くして訪れた死別。そのために春琴は迫り来る不安を逃れ、佐助は見たいものだけを見て生きることが可能になった。これがハッピーエンド。理想とした対の、終の住処。その関係を現した墓は、だから一瞬を閉じ込めて、永遠に尊い。そこに耽美の極みがあると言っても過言ではない。春琴抄に描かれているのは、方向は違えど、ただひたむきに何かに向かう姿だ。中でもひたむきになれるものに出会えること自体幸運であり、その喜びを書きたかった。

 

「佐助のことも三人称で書いてあるが、著者は本人だろう」

 

 だから笑ってしまう。それは合わせ鏡のように幾重にもなって、うっかり覗き込んだ人をも巻き込んで炙り出す。ニヤニヤしながら書いている、それはあなた自身のことだ、と。

 

 ポップで読みやすく、日本語の美しさも存分に楽しめる谷崎潤一郎の『春琴抄
 まずは聞いてみることをお勧めします。「やあチリチリガン」は一聴の価値あり。春琴だけではく、その向かいで項垂れる佐助の姿も浮かぶようです。
 そうして読み終えたその時には、真っ先に浮かんだ言葉を聞いてみたいものです。

 

 

 

 

 

 

*違和感を避けるため、文中敬称を省略しています。よしなに。

 

 

 

 

 

 

 

【次回更新は

『この競技と結婚すると決めた』9月6日(水)

『独り言多めの読書感想文』9月9日(土)予定です】