【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

【理想の愛を生きる】谷崎潤一郎『春琴抄』(前編)

作品は「春琴、ほんとうの名は鵙屋琴」から始まり、主人公が「近頃手に入れたものに『鵙屋春琴伝』といふ小冊子があり、此れが私の春琴を知るに至つた端緒であるが」というように、この作品内での話は、小冊子を通じて知った話であり、第三者が過去を振り返るという語り口で書かれている。耳(オーディオブック)を使えば2度3度聞いている内に勝手に全体像が見えてくるのでご安心いただきたい。
 この第三者目線が憎い。「検校(春琴の相手役の男、佐助)のことも三人称で書いてあるが、著者は本人だろう」と作中で語っている。ちなみに「春琴伝」を書いただろう本人の視点での話がメインであるため、この作品自体「春琴伝」を書いた「佐助伝」であって、本当の主人公は佐助に思えるが、大した問題ではないのでここは言及しない。

 

 春琴は1839年、大阪道修町薬種商生まれ。いい家柄に生まれ育つも、9歳で失明。以降58歳で生涯を終えるまで一生独身を貫く。この没年が谷崎の生まれ年と同じなのは偶然とは思えない。佐助の春琴に対する想いは、谷崎自身が隣家の婦人、松子に重ねたものと言われているが、想いは「歪むことのない数値」に現すこともできるらしい。表立ってどうにもできない分、自然と陰湿な、息をひそめるようなつながりにならざるを得ないのかもしれない。一方佐助は春琴没後、やもめ暮らしとあるが、佐助自身も盲目となって30年、幸せの中に生きた。

 

 旧字体、言い回しに時代を感じこそすれ、文末「昭和8年」という記述に、ふと自身の祖父の生まれ年を確認したら昭和6年だった。それだけで見えない柵は払われた。間違いなくこれは祖父が2歳の頃(時代)を描いた作品なのだ。
 ちなみに春琴が15の時、時代背景として鎖国が終了している。来たら仕方なく受け入れる程度だったが、この後外国文化が入ってくることが、同作者の作品にも見てとれる。春琴抄と同年に発表した「陰翳礼讃」や関東大震災後の「痴人の愛」「蓼食う虫」しかし春琴抄はそんな他をあえて視界に入れず、縦に掘り下げる。そうして物理的な近さ故の問題を回避し続けた一要素が、代えの利かない(あくまで個性としての)盲目の性質であり、芸事だった。この2つは掘り下げる必要があるので取り上げて説明を挟む。

 

1、 盲目の春琴
 前に軽く触れたが、春琴は9歳に視力を失い、以降一生他の輪郭を把握することなく過ごす。真っ暗ではないというから「光を失った」という表現は違う。原因は不明だが、春琴を「何かにつけて球天の高さに持ち上げ」たがる佐助曰く「与えられた才覚や春琴をことさら贔屓する両親に嫉妬している者の仕業、あるいは過分に与えられたものの帳尻を合わすように奪われたもの」らしい。兎にも角にも幼少期から類まれなる才覚を発揮していた春琴は、良家に生まれた上、体裁を重んじる当時の大阪の気風に沿って、順調に気位の高いお嬢に育っていった。琴の師範に「あの子は天性芸道に明るくさとりが早いから、捨てておいても進むところまでは進む」と言わしめる程琴が達者であったというが、本人は「舞にこそ天武の才があった」と口にしていたことからもその気質はうかがえる。


 元来の素質に加えて、我が子かわいさに春琴を甘やかしがちだった両親(この後、春琴の機嫌のために、結果的に佐助の将来までも大きく変えてしまうレベル)や、春琴が稽古に来ないと家まで使いを走らせるか、自ら杖をついて見舞ってしまうほど溺愛していた琴の師範によって、春琴の人格は形成されていった。膨張するのである。一方でそのことは春琴自身「幼くして視力を失った『我が子の不憫さ』が多分に含まれている」のを感じ取っていた分、無意識下でストレスを蓄えていった。先にも書いたが、春琴は非常に気位が高いのである。その様は自分の門を掲げた時、歳暮を一つ一つその手で開封してその質によって態度を変える程。これは「額」という一つの物差しで、相手が自分をどの程度の存在と感じているか測る行為であった。当時、首都はまだ京都。東京で言う横浜だろうか。大阪道修町の良家のお嬢様のプライドは、それはもう家柄、育ち、とにかく自分の生まれ持った条件、そしてその条件に照らし合わせた自分を客観視し、相手の思いが見合わないと冷徹とも思える目で裁いた。

 

 ちなみに佐助という存在であるが、彼は春琴の4つ年上、丁稚奉公の身であり、代々続く春琴の家に使える立場だ。だから春琴とは完全なる主従関係。そんな一介の丁稚が、稽古場まで10町(約1km)の道を手を引く役として春琴に名指しされ、専役になることでこの二人の関係が始まる。ちなみに佐助が春琴と出会った時既に春琴は失明していて、佐助自身、それを不憫だと思ったことは一度もないと強く断っている。小さな手を引いて黙々と歩く佐助を、この時春琴は「うるさくしない、ただの手」としていた。けれども自分の役目にだけ忠実で「顔色を窺わずにいてくれる、気を遣わずに済む相手」というのが、どれだけ彼女を癒したか知れない。この後、程なくして手を引く役だけでなく、自身の身の回りの世話全てを任せるようになるのは、至極真っ当なことだった。

 

2、 芸事

 いわゆる仕事である。春琴は仕事ができた。ハンデを感じさせない程めっちゃできた。仕事で求められるのは成果だ。どれだけ練習したとか、時間をかけたとか聞いてない。仕事の出来がそのままその人の評価になる。プライドの高い春琴は一見才能があるように見えても影ながら努力を怠らなかっただろう。後に佐助に三味線を教えるようになる時、うまくできない佐助に「頭に傷があるたまじろう」の話をするが、これは要約すれば「仕事ができるようになるため、成果を出すための暴力は可」というものであり、むしろ当時はそれをありがたがる風潮があった。春琴は自分を憐れむ周りの者がこのように叱れない(この類の愛情を自分は受けることはない)ことを知っていた上で、だからこそ絶対に叱られないと確信が持てるようになるまで努力したに違いないのだ。これは、この緊張感は才能では補えない。そうして自身が仕事上の上司となれば、聞いた通りの振る舞いをした。


 余談になるが、暴力関係なく作中春琴が「やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガンチリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトン」と右手で激しく膝を叩きながら口三味線で教えるシーンが出てくるが、まあこれがかわいい。当事者は怖いんだろうけど、めちゃくちゃかわいい。ぜひ音声で聞いて欲しい。これはこれで非常に危険なアンビバレンス。さて、話を戻す。

 

 元より先祖代々仕えてきた主家のお嬢である上に、上司となり、己の不出来を正しく罵られれば佐助に逃げ場はない。それ以前に逃げることなど許されていない。崩壊する自我に泣くしかないのだ。見るに見かねた両親が春琴を注意すれば「お前のせいで私が叱られた」と言う始末。春琴は春琴で「佐助のためにやってる」と言うが、その心が例え誠であった所で、その裏に見え隠れするは劣等感。佐助を通じた自己実現。自身の門弟が優秀であることで不具の自分に一種ブランド的な価値をつけたかった。これはあくまで一推測に過ぎないが、一介の丁稚が成り上がって最終最高位に就く。己の価値を補う者として佐助を望んだ。いつからか春琴は佐助を独立した個人ではなく、自分の身体の延長にある者として接していた。ただ、丁稚は丁稚。両親は既に春琴の真っ当な結婚を諦めていた。そこで佐助なら身元も知れているし、安心だと言うことから、妙齢になるとそれとなく佐助との縁談を勧めることもあったが、春琴はこれに激怒する。盲目が故、丁稚の嫁になる。それは彼女にとって「ただの手」だと思っていた相手に自分自身がなることに違いなかった。

 

 かくして三味線稽古していた佐助が正式に春琴の弟子となり、泣きながらも成長していく。その生活はずっと共にあった。春琴の身の回りの世話から稽古、終わっても上手く出来なければまた稽古。これを延々と繰り返す。いくら何でも毎日ずっと一緒にいるのはストレスにならないのか。心から慕い、けれども己を真っ向から否定してくる者とずっと一緒にいる佐助はもとより、春琴としても研ぎ澄まされた感性が肌に馴染めば生活に刺激はないだろう。ただ同じことの繰り返しだ。


 頑なに相手を明かそうとしない春琴の腹に宿った三人の子の命。主家と直属の上司の板挟みに「堪忍して欲しい」としか言えない佐助。共に生涯独身を貫いた。だからソレ自体、呼吸にも似た自然な行為のようにも思う。何も恋愛だけが全てではない。それよりも自己実現、立身を望んだに過ぎない。春琴は他の門弟の手前、絶対的に主従関係を守り抜いた。それはあるべき自分であり、不運を跳ね返し自尊心を守るための、絶対に守り抜かねばならない一線だった。この「絶対」に綻びがなかったからこそ、これだけの至近距離で互いを想い続けていられた。

 

 

 

 

 

 

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