朝井リョウさん『正欲』映画感想文(前編)
映画化って時間制限あるから作品本体にメスを入れなきゃいけなくなるのは分かるんだけど、時にそれで歪んじゃったり、そうじゃないんだけどなあって違和感が残ることがあって、でも今回『正欲』にそれは見られなかった。
全てを語らなくても単語でトラウマを表現する八重子のやり方上手いし、意識高い系のよし香や優芽の話の進め方を挟むことで八重子の属している環境が一瞬で把握できたし、本来質問には答えられない立場である啓喜の「調停中です」のつぶやきも刺さったし、このラストもこれはこれで充分アリだと思った。総じて全く違和感なく、映像自体もキレイで、とても良かった。
そんな訳でちょっくら感想文するね。
【導入、ガッキー頑張れの話】
夏月が全体通して薄めのメイクだったのが、最後啓喜と対面した時、ガッツリメイクしていたのが印象的だった。戦うと決めた時、やっぱムーンプリズムパワー関係なくメイクアップするんだなと思った。
本作では何を言われても言い返さず、別に捌け口を見出していた夏月が、映画ではわずかながら言い返していて、思わず「頑張れ」と手に汗握った。元々音を引きずり出すためとはいえ、この一方的に言われ続けるシーンは、すぐ言っちゃう私には酷くストレスで、よく耐えられるなあと思っていた。これは夏月だけでなく大也にも言えること。
【1、キモくても自覚していれば大丈夫です】
大也で思い出した。本作において神戸八重子は私が最も苦手とするキャラクターで(多分同族嫌悪)物語終盤に差し掛かるまで(あくまでキャラクターとして)「キモ」と思っていたが、最後自分の思いを主張する場面、主張を終えた八重子が後退りながら「自分が一番キモい」って自嘲した瞬間、ふと私の中の何かが和らいだ気がした。
本作では「八重子個人にとっての正しさをひたすら押し付け、思わぬ反撃で半強制的に「聞か」され、それでも尚きちんと受け取らず、聞いた風を装って自己主張し続ける」感じだったが、映画ではふと我に返ってもう一度考え直す様が見られた。
誰しも自分の正義を持っている。それぞれにバックボーンがあり、基本的にそのどれも間違っていない。だから大事なのは伝え方、伝えようとする本人の在り方。この人の言うことなら聞こうと思われるかどうか。同じことを言ってもスッと受け入れられる人と、互いの間にギュッとブレーキの生じる人がいる。
自然の摂理。人にはホメオスタシスが備わっている。一般的に主張すれば引かれ、逆に引くことで引き出すことができる。八重子は自分を主張することで押し付けた烏滸がましさを恥じた。だから「大丈夫」が引き摺り出された。
自分を晒すのは勇気がいる。否定されようものなら一生ものの傷になる。その「大丈夫」は、そんな勇気に対しての敬意と、発することでバランスを崩しかけている人を支えようという無意識の思いを根にもつ。
伝え方、その人との関わり方、最低限の足場さえ構築できたなら、主張自体はしていいのだ。ただ、熱量の高い思いは圧倒的に感情を伴う。だから返ってくるものにも多分に感情の要素が含まれる。それを受け止める覚悟の上で話を始めることをお勧めする。何の話だコレ。
【2、基本対等に話ができない人は無神経説】
同じ「『自分には理解できない人』のケースを取り上げ、問題提起して終わる最後」、本作では〈両目を善意で輝かせた友人が“頭おかしい人の暴走”と断じたニュースは〉という文言が入ってくる。第三者の主張と当事者の主張は、同じ事象を挟んでも違って、自分に都合のいいところだけを引き抜いて話をすることを〈目に見えるゴミ捨てて綺麗な花飾ってわーい時代のアップデートだって喜〉んでるって大也は言ってるのかな。
スマホ持ったって根本人は生物として何も変わっていない。令和だって人身売買は現在進行形で行われているし、戦争は無くならないし、資金繰りに奔走して必死で生きてる。いきなり何かをできるようになる訳ないのに「理解してあげる」という謎の自己肯定感で近づく、あまねくそれは言い訳に過ぎないと言うのが個人の見解。
おそらくその人は自分の輪郭を正確に把握できていない。人1人分きちんと満たせない人間が手を伸ばすのは、むしろ浮き輪を求めているからだ。特に立場が弱い内は気をつけた方がいい。そう。「〜してあげる」というのは美しくない。だから互いの間に何かギュッとブレーキが生じるのを感じたら止まる。そこでkeep out無視してアクセル踏み込むから事故が起こるのだ。自覚すればまだいいが、轢き逃げは立派な罪だ。知らず犯罪者になっていることもあり得る。