【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

【1、コップ一杯分の水(尾上和馬)】『カインは言わなかった』

作中印象的なのは「誰かと比べて劣る自分」
 憐憫の情はかけられない。不相応だけど成立するなんてこともない。主演と比べられる自分、ミューズと比べられる自分。同性異性関係なく、「その筋」において不足する自分。ここに、全てに共通する一つの答えが投げ込まれる。主演の代役を叩き込まれている尾上が受けたセリフだ。紹介しよう。

 

 

〈「お前は藤谷ほど動きの語彙力があるのか」〉
〈「だからお前は根性がないんだ。何でもすぐにわかった気になって目を逸らしてしまうから、語彙が増えない。お前の寡黙な踊りは誰にも何も伝えない」〉

 

 

 ドキッとする。端的に言えば「考えなし」
 言い切ってしまうのはラクなのだ。その先を考えなくて済むから。けれど安易にそうすることによって、「本当は必要だった部分も一緒に切り捨てて」しまう可能性が出てくる。切り捨てる部分を無くすことはできずとも、極力減らすことはできる。突き詰めて考えることで、その人の表現が洗練されていく。

 

 先にも述べたが深くなるほどに苦しくなり、孤独になる。例えば最近映画化された『正欲』。書き切るまでの朝井リョウさんの孤独を思う。けれどだから作品としての価値が生まれ、金銭授受が発生する。「そのこと」に時間をかけるのを、選ぶのは自分で、誰も強制なんてしない。そうして選択肢が無限にあるからこそ、比較対象自体が少ないために、そこまで突き詰めなくても何となくそれなりのものに見えることもある。
 そのことがわかったから真っ直ぐに堪えた。例えば一つの課題を与えられた時、ノータイムで「こうだ」として走り始めること。「どんな意図があって」「どんな技術が欲しくて」「そのために必要なのはどこの筋力で」「じゃあ何のトレーニングから始めればいいのか」それら全てをすっ飛ばして「こう?」とすぐさま踊ってみせること。その浅はかさ。それで苦笑いされて「真面目にやってるのに」と憤るのは筋違いも甚だしい。そう。

 

 バレている。その道に精通している人からすれば、その差は歴然。付け焼き刃。寄る辺アリナシ。偶然必然。評価は、だから評価する側が持つ寄る辺に沿ってつけられたもの。一定の基準を満たすか否か。満たすというのはコップ一杯の水。気泡が多ければ当然見合わない。表面が波立つことなく、きちんと一杯分の水。計量。それは変わることのない質量。
 金太郎飴と評された尾上の演技。男は与えられた課題に対し、すぐさま踊り始めていた。

 

〈知ってるか? 金太郎飴。切っても切っても同じ顔、顔、顔〉

 

「同じ」と称されたのは、だから理解の深度。表面の何をいじったところで、見る人が見れば同じものにしか見えない。何より大事なのはまずきちんと受け取ることだった。

 

 尾上には高いベースがあった。元々体操をやっていたために、踊りに必要な身体、幹はできていた。充分な素材はあったのだ。それに気づいた尾上は、だからそっちに向かって努力を始めた。

 

 エピローグ、冒頭で「カイン」について評論されていた続きが描かれる。この作品の本当の主人公の名はそこに記されている。

 

 

 

 

 

 

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【次回投稿は11月29日(水)です】