【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

序、芦沢央さん『カインは言わなかった』

「その世界」というのは、中にいる人でないとわからない。

 恋人、上司、家族。一対一だろうと、一対複数だろうと関係ない。「その世界」での常識「その世界」ならではの理がある。
 特に演劇などの芸術関係は、わざわざ観に行かなければ関わることもない。その中で熾烈な競争があり、ヘアアイロンさながら、そのために死を選ぶ程大きな感情の揺れが生じたとしても、結局誰かにとっての虚構の世界、パラレルワールド。ただ、その世界に関わる機会がないだけで、実際トップオブトップが披露するものを見て、何も感じない訳がない。
 当事者でなければわからないことを、当事者に強烈に感情輸入させることで疑似体験させる。それは座ったままできるアクティビティ。そう。

 当事者でなければわからないこと。
 誰かが「何でそんなことにこだわっているの」と鼻で嗤うようなこと、細部にこそ宿るもの。そもそも「そんなこと」を見つけられなければこだわり自体生まれない。エネルギーのかけようがない。
 当事者でなければわからないこと。
 深みにハマればハマるほど、苦しめば苦しむほど、時にこの思いをわかってくれる誰かを探す。けれど同じような経験をしたとして、同じ思いをする訳ではない。ただ「同じ経験をした」事実をベースに、自分だけではない、と再び前を向く。必要になるのは「正しい方向に向かって」の努力。
 作品全体を通して、穏やかじゃない、張り詰めた雰囲気の中、闇の中を手探りで歩いてきた人たちが最後に見出した光は実に眩い。

 以前同作者の『汚れた手をそこで拭かない』を読書感想文したときにも書いたが、本当にこの人の作品は、なんというか頭が良くて(←頭悪そう)すごく読みやすい。特に感情の当て方には、ぼんやりとしていた思いの輪郭がはっきりする感じがある。そんで上手い。作中誰かの表現が、人物を替えてリンクする。冒頭とエピローグの繋ぎとか鳥肌ものだった。ススめる側としてもススめやすい。それでもやっぱり読みやすさに尽きるのかな。うん、すごく良かった(←やっぱり頭悪そう)

 

 

【大枠】
 バレエをはじめとする、とある対象に自分の全てを捧げてきた人たちと、それを見てきた人たちの物語(ここでは前者を表現者、後者をサポーターとする)描かれる視点は5人。嶋貫あゆ子、尾上和馬、松浦久文、皆元有美、藤谷誠。表現者に尾上、皆元、藤谷。サポーターに嶋貫、松浦、そして皆元。皆元だけは両方の当事者である。

 

【タイトル解釈】
 人生のおいて演劇を至上とした男が、そのために人の、しかも身内の死に立ち会おうと、公演に差し障るのを避けるために「言わない(通報、公にしない)」決断をする。
 普通の人ならしない決断、向かわない方向に向かって突き進む人たちの覚悟を描いた物語。

 

 

 

 表現者。言外という点では『キリエのうた』に近い。
 とても良かったので、私なりに読書感想文してみようと思う。
 全5本。毎度長くはなりますが、どうぞお付き合い下さい。

 

・序
表現者1「コップ一杯分の水」(尾上和馬)
表現者2「オヒメサマのキゲン」(望月澪)
・サポーター「絶対に許せない距離なんてなかった」(皆本有美)

(付録)
・偽りの表現者

 

 

 

【次回投稿は11月27日(月)です】

 

 

 

 

『キリエのうた』もちょっと映画感想

【強要と反発、感性を守る】
 社会のルールに従うことを強要されることへの反発。 

 

・主人公キリエは津波で家族を失うも、少女ながら自分で考えて生きようとしていた。後に姉の婚約者に保護され、役所に向かうが、血縁関係がないため、赤の他人として問答無用に市の児童保護施設に預けられることになる。
・孤独な女児であるキリエに歌うことを教えてくれた男は、ある日突然女児に対する誘拐疑惑から警察に連れて行かれてしまう。男は身分を証明するものを持っていなかった。
・養子縁組をしていた家族の元を飛び出し、姉の婚約者のところにやって来てしまう高校生となった女の子は、一人踊る。幼い頃習ったバレエ。今は亡き家族の視線を集め、褒められたそれは、今は言葉にできない思いを、自分の感性を解き放つために役立つ。
・野外ライブに警察が来る。「ライブの許可証を持っているか」と尋ねられて、責任者ははぐらかす。すぐさま中止を呼びかける警察をよそに、伴奏が始まる。キリエが歌い出す。

 

 

 ほとほと人間とはよくできているものだなと思う。頭がいいというか、頭でっかちというか。私自身、ゲシュタルト崩壊を起こすことが度々ある。
 抗うことの出来ない自然災害(この映画では2011年の東北大震災を題材にしている)に加え、人間が作ったルール。弱い葦が力を合わせて生存するために作った「社会」は、当然多数を生かすために作られたもので、時にその隙間に誰かが落ちる。誰かにとっての「仕事」が、誰かにとっての人生であり、感情を無視するものだったりする。

 

 ルールありきで社会は成り立っている。けれど最終、ライブを制止無視して歌い始めたキリエは、仲間と共に弾丸の如く赤信号を渡った。そこには地震に始まり、「市の管轄だから」「身分証明が出来ないから」「子供だから」と奪われ続けたことに対する反発が窺える。「キリエ」というのは震災で亡くした姉の名だ。ショックから歌う時以外声の出せなくなってしまった彼女は、だからそんな理不尽に抵抗するかのように歌い続ける。

 路上ライブで生計を立てているキリエにはうたしかない。まともなコミュニケーションの取れないキリエにとって、自分を発信する術はうたしかない。人と繋がる術はうたしかない。だからただ歌う。
 挑発されれば怒るように、求められれば囁くように、うたで感情を表現する。だからうたを奪うことは声を奪うこと。キリエはそれを拒んだ。他の何に執着がなくとも、それだけは。「それ」は生きる術、生命線。不遇の中でもキリエはちゃんと生きることに執着していた。
 ついでに、

 

〈楽しい時間は永遠には続かないんだけどなあ〉

 

 これは金になると、事務所に所属することを促す男に「楽しいので、今はこれでいいです」と口にしたキリエ。アーティストとしての旬。若さ。今しかできないこと。刹那的な「楽しさ」を優先させることは、うたでしか生きられないキリエの一般的には幼い選択なのだろう。けれどキリエは震災を経験している。突然奪われる明日を知っている。だから「今の楽しさを選ぶ」それは、必ずしも間違っているとは言い切れない。ギターと機材を持ってどこへでも行く、自由なキリエはどこに向かうでも楽しそうに見えた。

 

 

 

 

 

【4、男親として(村木嵐さん『まいまいつぶろ』)】

優先順位というものがある。立場によって簡単に殺されかねないこの時代は、とにかく生き延びることが最上だった。

 

 

 同作者の著書に『阿茶』というものがある。『まいまいつぶろ』が9代家重を取り上げているのに対し、初代家康の時代を背景として描いた作品だ。その中で印象的だったのが、後に阿茶の初婚相手となる男のセリフで、男は当時6歳の阿茶に向かって〈「母上は何があろうと須和殿(阿茶)をお守りになるだろうが、父上は須和殿を捨ててでも信玄公を立てられることもある」〉と言った。そこに父が〈「理屈を言うなら、信玄公が倒れれば甲斐の皆が生きられぬゆえ、須和が後回しになるのは当然だな」〉と付け足す。

 個の感情より社会を優先する。一族を、仲間を生かすために、イチイチ足元に気を取られてはいられない。最低限「男児」あるいは血縁の命だけ懐に抱いて戦に出向く。そんな「戦」は、直接刀を交えずとも起こる訳で。

 

 長男でありながら重度の障害を持つ家重と、利発に育った弟たち。吉宗は長らく迷っていた。最終家重が正式に将軍の座についたのは35歳。元服からのタイムラグが、そのまま吉宗の悩みの深さを示していた。
 吉宗は家重のことを〈「彼奴は人の心をよう見抜いておったのう。天然自然、憐れみ深い質じゃ」〉としながらも、〈「だが将軍が、いちいち人の心を解しておってどうなる。ざっくり切り捨てられる者でなければ務まらぬではないか」〉と案じていた。

 

 

 実は後にこの場面のアンサーに当たる事件が登場する。木曽三川という暴れ川が走る水郷地帯での氾濫、その治水を薩摩藩に依頼した時のこと。流域は美濃郡代が支配する天領尾張支藩に当たり、いざ着手するも、現地で執拗な嫌がらせを受けているという。
 元々幕府と関わりが深い土地であるため、どうにかしてもらえないかという薩摩藩の訴えを、忠光は退けた。否、正確には家重に伝えなかった。〈将軍というものは政に関わるべきではな〉く、〈政は親しい者を切り捨てられてこそ、正しい道を進む〉のであり、〈上様がそれをお出来にならぬのは大きな疵じゃ。ならばそれを補うのが御側の務め〉だからだ。
 現地は耐え難い屈辱がために自死を選ぶ者が後を断たないほど凄惨な有様だったが、それでも結果的にそんな忠光の計らいによって〈一刻も早う、大御所様のような御改革を始め〉られた。(後に事情を知った家重は、忠光相手にブチ切れるが、いくら今暴れたところで終わったことだからどうしようもない)
 そうして結果的に家重は、家臣に慕われ、政策を進められる良い将軍となる。

 作中、将軍をしゃちほこに例える場面が出てくるが、まさにその通りで、一人一人が結託して、不足を補い合うことで「城」は成っている。まさか将軍が全部に口出しをすることではない。

 

 

〈「もう放っておいて良いであろうな」〉 
〈「つくづく儂は、周りに恵まれたの。今この場におる者は、誰一人欠けてもならぬ。儂の最も大切な者たちだ」〉

 

 

そうして「子が親になる安心」というよりは、きちんと家重を含めた「社会」が成ったことを確認して吉宗は逝った。人々を生かすため、時に「米将軍」と揶揄されながらも必死で尽くし、一方で選んだ家臣に〈「そのほうには特別に、家重の補佐を頼みたい」〉〈「口のきけぬ家重に、見事将軍職を全うさせてみよ」〉、忠光には〈「友として上様にお支えせよ」〉などと声をかけて回っていた吉宗。
 絶対の主君でありながら、ふと垣間見える親心。そのギャップこそが、実はぐんと改革を推し進めた要因だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

【次回は10月11日(水)『独り言多めの読書感想文』にて投稿予定です】

 

 

 

【3、家臣として(村木嵐さん『まいまいつぶろ』)】

親は子より先に死ぬ。だから親は子が一人でも生きていけるようになるまで育てる。「孫の顔が見たい」というのは、だから親にとっての子が親になり、もう心配いらないということを納得したいがための欲求なのだろう。

 

 忠音にとって家重は〈他でもない、玉はどこへでも進めるのだぞ〉と「玉」であることを疑わなかった。けれど現状、幕閣で己以外家重がまこと将軍になると信じている者はいないように思えた。比宮はすでに亡くなり、子は流れて、次の音沙汰もない。その願いは、声は、酒に溺れた家重に届かなくなっていた。だからこそ忠音にとって、今自分がいなくなることほど不安なことはなかった。

 比宮は運命と言った。それが自分に定められた運命だから、と。
 忠音もまた信じていた。他でもない、家重こそが将軍になる運命を持っていると。だからそのためには自分がどう思われようと構わなかった。

 

 

〈「比宮様の御心が、もしや家重様はお分かりにならぬのでございますか。あの御方がどんなに家重様の先々を案じておられたか」〉

 

 

 忠音には分かった。
〈家重ならば不足はない。家重はただ口がきけぬというだけで、他は全て宗武(弟)よりも秀でている〉〈吉宗の改革を前に進めるといえば、その力を過信する宗武ではなく、己を卑下し続けてきた家重なのだ。──慎重に父の後を歩こうと弁えている、己が父に劣ることを絶対に忘れない跡取りだ〉ということが。
 そうして忠音自身、病に倒れ、口もきけなくなって初めて家重の苦悩を知る。〈言い切れぬ思いに溢れたこの家重の目が、堪らなく好きだった〉ことを思い出す。

 忠音にとって家重は「仕えるべき主君であると同時に、放って置けない我が子」のようでもあった。忠音はただただ家重の行く末だけを案じていた。元々他の幕閣を引き込むつもりだったがもう間に合わない。今は自分のような誰かがそばに現れてくれるのか、誰か託せる者はいないのか、と不安に思うばかりだった。

 

 

 どうか。
 どうか家重様を。

 

 

 その時だった。

 

〈「私は本気で将軍を目指してもよいか」〉

 

 声が聞こえた。
 比宮が亡くなって後、将軍になりたくないと言っていた男の。

 

〈「忠音。私の言葉が分かるのか」〉

 

 それまで一度として聞こえることのなかった、忠光を通じてしかできなかったやりとりが、この時初めて叶う。
「それ」は比宮がしていたコミュニケーション。然りならば一度手を握り、不然ならば二度。忠音はまばたきで応えてみせた。
 ぎゅっと一度。

 

 

〈「分かった、忠音」〉

 

 

 親は子より先に死ぬ。だからこそ安心できる何かを欲する。忠音にとって「仕えるべき主君であると同時に、放って置けない我が子」のようでもあった家重が、自ら立身を誓うというのは、そんな「何か」に匹敵した。
 ただ安心したかった。それでいいのだと納得したかった。
 伝えること、伝わること。言語に限らない。人一人の意思が、どれほどの純度を持って相手に届くか、届いたと思えるか。

 忠音は幸せの内に逝った。「成仏」というのがニュアンスとして限りなく近しい。
 そうしていつの世かきっと、生まれ変わってまた出会う。

 

 

 

 

 余談だが、私がこの場面を視界をゆらゆらさせながら読んでいる時、背後で Def Techの「My Way」が流れていた。その歌詞がジャストフィットして、以来忠音の歌だと思っている。
 きっと一度は耳にしたことがあると思う。よろしければ是非一緒に聴いて頂きたい。泣いても大丈夫な環境でなければ、私はもうこの曲は聞けない。

 

 

 

 

 

 

【2、妻として(村木嵐さん『まいまいつぶろ』)】


覚悟、と言った。
 始めそれは「将軍家に嫁ぐ上で、いかなることにも動じないという気位の高さ、一種の強がり」かと思った。違った。このように、仮に同じ言葉で表現したとしても、人によって容量が桁違いなことがあるから注意が必要だ。ここに「共通の言語であっても話の通じる通じないが生じる」現象が発生する。

 比宮にとっての家重は、嫁いでから毎日自室に手入れの行き届いた花を送ってくれる、思いやりあふれる殿方。そんな男との初めての顔合わせ。公の場でのことだから直接伝える機会はなくとも、もし叶うならまず感謝を口にしたかったに違いない。
 しかし「殻の割れた穢いまいまいつぶろ」。それは臭いで気づいた。男はまず〈尿を漏らしておられた〉。加えて〈お体にまともな所はなかった──(中略)──口からは涎が零れていた〉
 少女漫画の夢が木っ端微塵に吹き飛んだ瞬間。突きつけられた現実、正体の顕現である。いくら男の頭上に矢印アイコン「年収800億」と表示されていたところで「いや、そんだけあっても使えねえし!」と全力ツッコミを入れる案件。ここは一旦自室に戻ってふすまを閉める。


 覚悟、である。


 もちろんすぐには飲み込めず、お付きの者相手に想像とのギャップを吐き出す様は見られた。けれど、覚悟である。女はこれを自分の運命であるとして呑み込んだ。
〈あの方があのような形でお生まれになったのも運命〉とした上で〈持って生まれた運命ばかりは、泣いて厭がってもどうにもならぬ〉とした。〈泣いて厭が〉る本心はあくまで個人に終始するもの。そんな次元で生きていない。比宮は天皇家から下ってきた身で、目的があってこの縁談も組まれている。
 比宮がすごいのは「そこ」から話が始められること。「じゃあ」と、その先を考える頭に瞬時に切り替えられること。

 この対面の後、老中の1人が「実際に会ってみて、さぞかしがっかりしたことだろう」と声をかけるのだが、比宮はもう「そこ」にはいない。この時すでに「騙された哀れな姫」ではなくなっていた。

 

〈覚悟など、妾は京を出たときにつけておるわ〉

 

 そうして比宮は一瞬で見抜いた。

 

〈ほんに老中など、狐じゃな〉

 

 覚悟。例えばそれを「何があっても護ろうとする意思」としたとき、女が発動させるのは「母性」。懐に抱え込んで牙を剥く。
 比宮は「初見は衝撃的すぎて」とした上で、二度目に会った後にはもう少し落ち着いて周りを見られた。感じたのは〈本丸の大広間で比宮も感じた、諸侯を見下ろして威に屈さねばならない心細さ〉
 比宮は家重に対して〈頭まで赤児ならまだしも、年齢に見合った成長をしながら入れ物だけが赤児のままだとしたら、その苦しみはどれ程のものだろうか〉と想像した。上座に座した比宮は、既に家重と並んで家重の目から周りを見ている。そうして

 

〈もしも中身まで赤児ならばお悩みになるはずがない。きっとあのような、ひたすら堪えるお顔など、なさるまい〉

 

 その意思に気づいた。この男にはきちんと意思があると気づいた。
 ここで響いてくるのが家重から毎日送られてきていた花。〈わずか三輪の時もあれば、七本、八本と色の異なる薔薇が活けられている朝もあ〉ったこと。香るは義務ではなく能動。こうしたら喜んでくれるかなという個の思い。
 だから花の棘を折り取っていたのが家重本人ではないと知った時、純粋に傷ついた。忠光の受けた嫌がらせ同様、何とも思わない相手の一挙一動に傷つくことはない。この時すでに関係は「成っ」ていた。だから「狐」と称した。主人を侮るお前は敵だ、とはっきり認識した。認識したからこそ、身近な敵から一刻も早く護らなければと思った。

 

〈あまりにも無礼ではないか。家重様がどれほどの怒りを抑えておられるか、誰も思うては見ぬのか〉

 

 怒っているのは比宮だった。当たり前にできる人たちが見下す。「運命」を「立場」を、ありのままを受け入れることのできない器の小ささに、細い肩を怒らせて憤る。

 

〈家重様のお味方になれるのは、妾だけではないか〉

 

 運命? いや、もはやこれはただの責任、正義感である。ただの比宮個人の気質である。そうして比宮は思い至る。家重が侮られるのは「将軍として跡を継ぐはずがないと思われている」ため。しかしそんな無礼に、真っ向から立ち向かう術を自分は持っている、と。

 

 だったら産んでやるよ。私がな。

 

 この瞬間比宮は母に「成った」
 実際の孕む孕まない、産む産まないの問題ではない。脳みそが作り変えられる。目的に沿って動くようになる。
 この段階では比宮個人に終始する正義の域を出ない。きっかけに過ぎなかった毎日送られてくる花。その棘を折り取っていたのは忠光。けれど

 

〈まあ。小姓(忠光)に頭を下げられたのですか〉

 

 次期将軍とも言われる人が、自分ではできないことを小姓に頼んでいたという。自分に送る花のために。

 

 その人にしか分からないやり取りがある。
 それは生もうとして生まれるものではない。飛び交う情報を、あるいは何かの折にさっとかすめるもの。何、と振り返ったところで残るものではない。けれど確かに「生じた」もの。
 本来、個人間の関係は閉じたものだ。けれど家重は忠光を通じなければ話すことができない。だから比宮は文を選んだ。それなら本人とだけやり取りができる。ただ一方で、言葉は必ずしも重要ではない。〈真心とは言葉で伝わるものではございませぬ〉〈夫婦などというものは、言葉に出さぬ方がよほど上手く行くもの〉と忠音が言う通りだ。

 ハナから「言わずとも分かるだろう」というのは怠惰だが、時に音にすればする程に精密なレプリカが出来上がることもある。太古、言葉なしに生きてきた祖先もいた訳だから、相手が自分のことをどう思っているかは目を見れば分かる。逆に見れないのはそこに見せたくない本音があるからだ。さて。

 そうして関係を築いた比宮は、ある日こんなことを口にする。

 

〈殿がまいまいならば、妻の妾もまいまいです。誰ぞが殿をそのように申すならば、妾のこともまいまいと呼ぶがいい〉

 

 実際懐に抱え込んで守ることなどできるはずがない。最も傷つく矢面に立たなければいけない。そんな心細さを、代われない心細さを、比宮はそう言った。
 後に比宮は子を授かる。けれど生み月に足りず流産し、その数ヶ月後、帰らぬ人となる。死の間際、比宮はずっとそばにいたお付きの者に願いを託した。見方によっては家重本人以上に傷ついてきたかに見えた比宮は、最期の願いとしてお付きの者に「殿の子を挙げるように」と言った。目的は「この先もう二度と、殿が誰からも侮られぬこと」

 執着。それはなりふり構わず。
 見方によっては家重本人以上に傷ついてきたかに見えた程、大切に思ってきた相手を託す。自分の思いではない。大事なのはその人にとっての最善。願いは「ただあの人が護られるように」
 それもまた母性。そうしてやっと永い眠りにつける。ただの自分に戻る。

 

 そう考えたら、比宮が自分の時間を生きられたのは、いったいどれ程だったのだろう。
 これは運命に従い、運命とともに生き、けれど最後は大切な人のため、運命を変えようとした女の生き様。

 

 

 

 

 

 

 

【1、友として(村木嵐さん『まいまいつぶろ』)】


前提として障害故、基本発語がままならない家重も、かつて母をもって意思疎通を図っていた。その母も、家重が3歳の頃死別してしまうのだが、だからこそ意思疎通がままならない、本当の自分が出て来られないというのは相当なストレスだったに違いない。

 

 次期将軍。加えて家重には立場がある。〈行事ごとに400畳の大広間でただ一人、上段之間に座る〉し、〈周囲の用意した問いに、然り、不然と首を振ることでしか生きられない、だというのに、誰からも侮られぬよう、この世に叶わぬことはないという顔をしていなければならない〉さらには〈誰もが長福丸(家重の幼名)様を己の立身の道具としか思うておらぬ〉そんな環境は、ただでさえ孤独な家重をさらなる孤独へ追いやった。
 しかしながらこれはあくまで家重個人に終始する問題だ。後にことを成し遂げるために個人の情を退ける場面が出てくる。

 

〈忠光様のお考えと同じでございます。将軍というものは政に関わるべきではないからでございます〉

 

 同じく家重の思いも或いは大勢のために切り捨てなければいけない問題だったのかもしれない。けれど家重には偶然にも言葉を介する者が現れた。時の権力者は運を味方につけられることも大事と言われるが、その点家重は強運だったと言える。

 

〈忠光が現れたゆえ、家重にも将軍を務める“目”が出たかの〉

 

 忠光がいることで、家重は再び人とコミュニケーションをとることが可能になった。実に11年。3歳から14歳に渡った孤独は、忠光の出現によって取り払われた。

 

 じゃあこの忠光、何者かというと、それまで全くやりとりのなかった親族である叔父が町奉行の役職についているというだけで、基本一般人。例えるなら〈いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めき給ふありけり〉だから〈はじめより我はと思ひ上がり給へる御方方〉が黙っているはずがない。
 表立って口にはできない分、忠光にだけ分かるように嫌がらせをする。ただ、このこと自体、根に家重を思う気持ちがある前提で成立する嫌がらせで、最低に違いないのだが、どこか微笑ましい。

 例えるなら仕事仲間をバカにされた時、兄弟をバカにされた時のようにはらわた煮えくり返るような思いをするか。ちなみに忠光はというと、しくしく泣いていた。本人に伝えれば傷つくし、けれど家臣の無礼を放っておいていいのか、迷った挙句己の胸の内に秘めた。後にそれは明るみに出るのだが、この嫌がらせ自体「相手を自分ごとのように思って」いなければ成立しない。もし仮に仕事として家重の声を周りに伝えるだけならば、忠光にとって家重が陰で何を言われようとどうでもいいことだった。

 けれども忠光は我慢ならなかった。家重にとって実の弟である小次郎丸が、家重が「若君」(次の将軍)の名を与えられた時、あからさまに不満そうなのを見て「そなたが(生まれが)先であれば良かったな」「小次郎丸。我らは兄弟ではないか」と口にするような人を、どうしても好きにならずにはいられなかった。

 

 人の性格を決めるのは元の気質、加えて育った環境。そう考えた時、16で家重の側につくようになった忠光は、叔父に言いつけられた「決して、長福丸(家重)様の目と耳になってはならぬ」を指針とし、自分がしくじれば当時大奥にいた上臈御年寄(滝乃井)と叔父の首が飛ぶことが分かった上で、役分を超えることなく真面目に仕えた。
 一方で、言葉を介する者として、訳す言葉があたたかいというのは、常日頃からやり取りする相手が思いやりに溢れる人というのは、役目として抱えるストレスをどれだけ和らげたか知れない。互いに換えが効かないというのは一種の縛りにもなる。上司が合わなくとも立場上関わらなければいけないというのは仕事でもある。そういう意味では相手が家重というのは忠光にとっても幸運だったと言える。

 

 そんな微笑ましい2人だからこそ、変えられたものがある。
 周りの目。次に語るのは後の妻となる比宮。

 

 

 

 

 

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【次回更新は10月7日(土)です】

 

 

 

 

 

 

【序、まいまいつぶろ読書感想文】


婚活市場にこんなプロフィールが流出したらどうだろう。

 

・自ら望まずとも肩入れするような者が現れる程の〈なんとも美しい形の目〉を持ち、

・年収約800億

・思慮深くやさしい人柄

 

 外見、年収、性格。

 どれかを取るならどれかを捨てろと言われる現実で、その全てを満たす男がいたとして、じゃあなんでそんな人が突如市場に出現したかと言えば「高貴すぎるお人のため」

 なるほど。年収の桁の異常さに即行頷ける案件。

 けれどこのプロフィール、最後の最後までスクロールしていくと「ただし」として、いくつか加筆されている。「思慮深くやさしい人柄」花を毎日送り届けるようなやさしいその人が、実は

・弓も槍術の類も一切していないこと

・手に麻痺があるため、仮名ですら書けないこと

・コミュニケーションを取るには首振りで意思疎通を図るしかないこと

・基本的におむつ着用のこと

 まさにこの世の天辺と底辺『座標軸上、上に打つ点を仮に「憧れ」【点A】、下に打つ点を「ないわー」【点N】とした時』のギャップが最高値を叩き出すお人、それがこの物語の主人公、9代Ieshige Tokugawaである。

 

 

 

 

↑おむつじゃなかった

 

↑家茂○  家重×

 

 

 

 

 ひとえに障害者と言っても「頭と身体の成長が連動する者」と「身体だけが成長して頭の成長が途中で止まってしまう者」がいる。ただπの小ささ故、「障害者」として大別する世の中を、渦中の者が憤ったとして責める気にはなれない。いくら道徳的な正義を説かれたところで、それぞれ当事者が向き合うことであり、部外者に人の心を矯正する権利などない。

 

 理解すること。可能だとして、その深度は人それぞれ。けれどじゃあその深度は、必ずしもハンディあるなしの条件に依らない。増してや星座や血液型も関係ない。

 ただ理解したいと思えるか。それは純粋な能動。受け入れるための準備。無意識に「その人」用のスペースを確保する。聞く耳、その人に沿うためのやわらかさが生まれる。足並みを揃えようとする。

 だから始めはもたつく。歩幅もペースも違う生き物が、いきなり二人三脚やろうってんだ。互いに合わせようとしてかえって合わなくなることもある。けれど「その瞬間」は必ず来る。その時初めて生まれる感情。

 

〈四年前のあの日、居室に入った比宮を出迎えたのは、輝くばかりに美しい大輪の花だった。──一度は心が離れていたときがあったけれど、最後はその心遣いが二人を結びつけた。比宮と家重は互いがこの世にいることを有難いと思い、敬い合っていた〉

 

 そう。全ては「出会えるか」

 理解の深さ、愛の深さなんて誰しも大差ない。出会えた人は周りから見て愛情深く映るだろうし、一見薄情そうに見える人はまだ出会えず、退屈を持て余しているだけ。そう考えれば現代を生きている人たちの存在理由に大差はない。誰しも出会える訳じゃないから、生涯浅瀬を歩む人もいるだろうし、かと思えば見つけた瞬間覚醒する人もいる。

 例えば100人が100人「やっぱりいいです」と逃げ去るような条件だったとしても、一人がそれでいいと言うなら万事いいのだ。ここで試しに順序を逆にしてみよう。何、単なる言葉遊び。

「出会えたから理解しようと思った」ではなく「理解しようと思ったから出会えた」

 元々何かに夢中になりたいと思っていた。愛したいと思っていたから「それ」が出現した。「求めよ、さらば与えられん」というやつだ。

 

 家重には理解者がいた。将軍という立場ではなく、ただ一人の人として理解しようとする者が。それが後に通詞となる忠光であり、妻となる比宮であり、幕閣である忠音であり、父親である吉宗。皆が皆耳を傾けた。たぶん皆が皆退屈を持て余していたからだ。

 愛したかった。迷いなく信じられるもののため尽くしたかった。高貴な人でありながら時に蔑まれ、けれどそんな視線の中にあっても思いやりを忘れず、自分にできることを淡々としてきた人に、己を賭ける価値を見出した。

 

 なんちゃってバチェラー。

 これは最弱にして最強の男の、かけがえのない出会いを描いた物語。

 

 

【全6回】

  • 友として
  • 妻として
  • 家臣として
  • 男親として

 

別途付録

・文系による読書感想文

・ニコイチ

 

 

 

 

【次回更新は10月5日(木)です】