【深】独り言多めな読書感想文

⭐️1つの作品に対して記事が複数に渡るものを収録⭐️

自由研究と読書感想文をいっぺんに終わらせてやんよ【5、愛】

過去に一度だけ「愛してる」と言ったことがある。恋愛の仕方は愚か、まともな人との付き合い方、つながり方さえ知らぬまま、互いを傷つけることでしか成り立てなかった恋のど真ん中。
 結論から言おう。ドン滑りした。「それ」は、口にした瞬間、屋根まで飛んで壊れて消え、自分の番号を見つけられなかった受験生でさえ黙って上着をかけてくれるレベルの代物だった。

 

 だから「愛」とは恐ろしい。いや、この場合正確には「『愛してる』と発言することで発生する、あのえも言われぬ居た堪れない空気恐ろしい」ということなのだが、兎にも角にも「愛」とは安易に手を出してはいけない危険物であると、あの時私は身をもって認識した。

 さて、本題に入る。今回は少し長くなるが、これで終わりなので、是非最後までお付き合いいただきたい。



【抽出】
『地獄の楽しみ方』より
〈愛憎はともに執着のうちですからね〉
〈「愛」という言葉を使うことで、実にクリーンで崇高なものに感じられてしまうんですね。これ、言葉のマジックです。「愛」は危ないですね。最初に言いましたが、自分の気持ちを言葉に置きかえると、その言葉があらわすもの以外のものが全部捨てられてしまいます〉
〈「愛」のような言葉のせいで、多くの日本語が死滅しかけているんです。他の言葉に言い換えてみましょう。違う言葉のほうが伝わるかもしれないし、そのほうがより自分の気持ちに近いかもしれないじゃないですか〉
フェルマーの料理』(2巻)
〈海! フィレ肉に熱が入ったぞ 焼きの仕上げに入っていいか!?〉
〈初めて会った時の 北田くんあなたは 私の…本当に最初の最初数学にのめりこんだ最初の動機「楽しい」それだけを持ち続けてられる人だった 乖離していく世界 周りの人たち それを 「切り離してやる」 
 それを意識してる時点で私は数学に没入できてないと気付かされる程に
「楽しい」だけに支配されたあなたは 無敵でした〉

 

 

「愛」は執着。言われてみればまさにその通り。元々「愛憎」は明度の高いものと低いもののコントラストだと思っていたが、「これだけしてあげてるのに」という個の都合は、回収を前提とした立派な執着。ひっくり返るも何も、始めから隣にあったという方が、感覚として正しい。
 この理屈でいくと、執着がなくなれば憎しみも消失するということになる。確かにどうでもいい相手に対して憎んだり恨んだり、わざわざエネルギーなんて使わない。そう、ここにポイントはあった。

 

 私が以前ドン滑りしたあの時、仮に「互いを疑うことのない時期」で、「互いに目一杯執着していた」なら、結果は全く違ったものになっていただろう。いけなかったのは「年月が経ち、別れ話がチラつき始めていたにも関わらず、何か盛り上がったから、兼ねてから言ってみたかったことを、その場のノリで言ってみた」こと。こんな不純な動機から発された音が、本来言葉の持つ重みに耐えきれなかった。だから受け取られることなく、ただ壊れて消えた。それだけのことだった。

 

 時にこのことは、わざわざ「愛」を経由せずとも起こり得る。
「恋人なのに、最も近しい関係のはずなのに、どうして分かってくれないの?」
 そこに生ずる、想いと心拍数の落差。実際の関係以上のことを、言葉として求めてしまうことで、能動であったはずのことが義務になる。「互いにこれだけの関係でなければならない」という、それこそ執着に成り代わる。だからやっぱり「愛」は危険物。もはや「」無くして世に出してはいけない。そのために、怪我をしないために頭を使うのだ。ここで後者の抽出に焦点を当てる。
 漫画である本作の最も大事な「絵」を、これまで引き合いに出さなかったのは、ともすれば簡単に消費されやすいもので、作者が必死で描き上げたものを、何のキックバックもなしにホイホイ使うことが躊躇われたからである。最後だから、魅力的だから、最後だけ勘弁して欲しい。

 

フェルマーの料理』(2巻)より

 本当に没入したい時、周りが一切見えなくなる。周りが自分をどう見ようと、一切どうでも良くなる。他方に散らす神経はなくなり、ただ目の前の一点にのみ全神経を注ぐ。その様は、さながら動物で言う狩り。その獲物を捕らえられるか否かで、食えるかどうか、ひいては生きるか死ぬかを分かつ。真剣勝負。その目は対象しか見ない。その瞬間、同じ世界に何十億人生きていようと、その人の世界は「それ」とその人だけになり、「それ」はその人にとっての生命線にも成り得る。
 ただ、「それ」に「自分を生かすもの」として執着するかと言ったらそうではない。それは紛れもない「愛」の権化であるにも関わらずだ。「それ」は、その人がそれまで積み上げてきたものの真骨頂、その人自身。だからだ。

 

 自分自身に執着は発生しない。だからその人が心血注いだものは、既に己の枠を逸脱して、己の分身として世に放たれている。それは絶対的なプロの所業であり、「愛」と称される時に受ける、本来持つあたたかな感覚を思い出す。「人」や「物」に依存しない愛。己の努力によって得た技術、それを通じた対象への愛は、賛美の対象になる。必要なのは「正面切って向き合い、指をさして、己の正しさを押し付けること」ではない。ただ「隣に並んで、異なる感性を認め合うこと」だった。そのために、何より己を成熟させることが大事だった。
 私にとっての「愛してる」、結果的に傷つけ合うことは多かったが、それでも共に過ごした時間はかけがえのないもの。間違いなくその人のおかげで今の私は在るし、今でも感謝している。そう。愛ではなく感謝。この方が圧倒的におさまりがいい。

 

 愛は危険物。でも、資格はなくとも、自分が相応でありさえすれば、取り込み、飼い慣らすことができるようになるのかもしれない。赤の他人であったはずの人と、本当の意味でつながることができるようになるのかもしれない。

 

 そんな希望に満ちた愛の話。

 

 

【了】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S.余談だが『フェルマーの料理』(3巻)には愛を模した一枚絵が掲載されている。本気で惚れた男性と関係を持った後に見せる顔だ。私自身、見た瞬間他人事とは思えぬ程動揺した。もののけ姫のサンが映画の作中ワンシーンで見せたものに近い。
 正直この一枚絵がこの自由研究を始めるきっかけになった。実物なしに、ただ「いいんだよ!」と言ったところで何も伝わらないので、随分回りくどくなったが、あなたに伝わればいい。いかんせん漫画の魅力を文字に収めようとしたところで限界がある。
 まだ3巻。是非実際手にとって見ていただきたい。

 

 

 

 

自由研究と読書感想文をいっぺんに終わらせてやんよ【4、言外】

 

「無償の愛」は尊いか。それは、分解して成分を抽出した時、本当に純度100%で生成されていると思うか。仮に純度100%だったとして、それを今のあなたは欲しいと思うか。

 

 

【抽出】

『地獄の楽しみ方』より
〈言葉というのは多くの情報を捨てて、ほんのちょっと、氷山の一角程度しかものごとをあらわせない、そういう性質のものです。ところが、言葉を聞いた人間は、捨てられた部分、欠けている部分を、勝手に埋めちゃうんです〉
〈小説は、書いてあることより書いてないことのほうが大事なんです〉
〈近頃はよく「言霊」なんて古くさい言葉を耳にしますが、あれが効くのは人間だけですからね〉
フェルマーの料理』(1、2巻)より
〈この味がどういう理屈で作られているか分かるか? 岳 お前に〉
〈お前の目的は真理の扉を開ける料理人になれるかだ。プロの道でどう成長していくかだけ考えてくれれば良い〉

 

 

 以前母親がGACKTの出ていた番組を見て「『料理も掃除も洗濯も家事は全て家政婦に任せるから(君は)何もやらなくていい。けど、その時間を使って君は何をするの?』って言ってて」と話していたことを思い出す。その時母は「お母さんムリー。そんなこと言われたらプレッシャーになっちゃうー」と笑っていたが、心配することなかれ、いくら何でもGACKTの方こそ「ムリー」だ。

 

 言外。言い換えて「察する力」「空気を読む力」
 何故そう口にしたのか。本当に言いたいことは何か。それは、発した本人の意図以上に、受け取る側が勝手にその言葉を膨らませてしまうこともある。例えとしてハンター×ハンターの念が分かりやすいかもしれない。向こうはその場にいるだけなのに「うっ、これ以上近づけない……!」的な。そういう人が、例えば何の気無しに缶コーヒーを投げて渡した時、受け取った側はそこに含まれた意図を必死になって読み取ろうとする。
「単純に労ってくれた」のか、「疲れていそうに思った」のか、はたまた「お前力不足だからもうこのプロジェクト降りろよ」なのか。重箱の隅をつつかれるかのように、やましいことなどないはずなのに震える指先。

 

 話をGACKTの例に戻すと、GACKT自身はただ単純に「充実した日々を送って欲しい。君は何に興味があって、何に時間を割きたいの?」と聞いていただけかもしれない。けれどもこちらが、見合わない前報酬に、勝手に対価を求められている気がしてしまう。勝手に余白を「これだけのことしてやるけど、その代わりお前に何ができんの? 何を生み出せて、どう社会に貢献して、どんなふうに世間に役立てられんの? それだけのことができるんだよね。俺様がそれだけの環境を整えてやるっつってんだから。お?」と埋めてしまうのだ。アレ、今回GACKTの話だっけ?

 

 ここで話したいのは受け取る側が勝手に作り上げる妄想「条件付きの愛情」である。先の例のように、自分が選べるならまだしも、既に中に入ってしまった場合、もう腹を括るしかない。ただ、それは何も悪いことばかりではない。
 余白を自分で埋めた時、その時はプレッシャーでも、追い込まれて初めて開花するものもある。連休。連休前にはやろうやろうと意気込んでいた、日常ではなかなかできないアレコレ、実際やろうやろうと意気込んだまま連休終了。誰だって楽できるものなら楽したい。でもこれが期限があり、ノルマがあるから、重い腰を上げてやる。同じく生命の危機に瀕して初めて限界を突き破る。それはアクセルを思いっきり踏んだ時のような、一瞬の間の後の急加速。自分でも知り得なかった力。

 

「条件付きの愛情」
 これができなきゃ認めてもらえない。重んじてもらえない。
 けれどそれは成し遂げた時初めて、想定していた以上の報酬を得る。
「成し遂げた自分」それは「それ以前の自分」と似て非なる。確実な進化。そうしてその土台の高さから見えるようになった新たな目標に向き合う。
 それは自分を愛する行為。自分だからできたという自己肯定。環境に左右される承認欲求よりもずっと確かで揺らぐことのない基盤。それが積み重なってようやく周りが見えるようになる。同じように喘ぐ後輩を見守ることができるようになる。

 

 メンター、と言ったな。
 試行錯誤させる。でも正しく導く。
 そうして結果的にその人にとって良くあるように。

 

 そんな今回はGACKTの話(ウソだろ)

 

 

 

 

 

 

自由研究と読書感想文をいっぺんに終わらせてやんよ【3、土台】

ふと思い出したんだけど、数日前「文系でもハマると言うから〜」という記事を出した時、〈「ここが面白いんだよ!」と力説されたところで「へえ」以上に何も出てこないのは〉ということを書いたんですね。これってまんまブーメランで、私自身こうして夢中になって言葉掘削作業をした所で、「へえ」以上に出てこない人がいてもおかしくないんですよ。
 これは、だからハマらなくてもあなたが悪いわけじゃないよ、って話。それでもここまでお付き合いいただいてる以上、少なくとも〈この場において有能〉なのでしょうから、ありがたく額にブーメランぐっさり刺さったまま続けるとします。

 

 さて、正しい言葉の使い方、と言われた所で、実際正せるのは「正したい人本人が目の前にいる場合」もしくは「それが書き残されたものである場合」
 残念ながら「あの人やあね。堅苦しくって」と言われるその言葉自体、永遠に摘発されることはない。

 

 

【抽出】
『地獄の楽しみ方』より
〈では『悪』はどうか。こっちは基本、「良くない」感じですよね。「ワルい」ですからね。ただ、「はなはだしい」とか、「ものすごい」という意味もあったんです〉
〈「愛」という漢字は三つのパートに分かれます。まず、真ん中に「心」がありますね。下にあるのは足です。上のほうにチョンチョンチョンと冠みたいなのがある。あれは「立ちどまって振り返る」という象形文字なんです。わかりますか。「愛」は、仏教で言うなら「執着」です〉
〈「絆」は、もともとは牛や馬をつないでおく綱のことですよ。犬が逃げないようにつけているリードです。「絆」は、足かせでしかないんです〉
フェルマーの料理』(1巻)より
〈「美味しい」「旨い」料理の世界には二つの褒め言葉がある。「美味しい」は感性の言葉。個人の主観に左右される。「旨い」は「旨味」をもたらす化学物質が存在し、数値として客観的に実証されてるものだ〉

 

 

 語源、言葉の成り立ちを知っていると、個人の枠を出ないはずの主観が押し上げられる。例えば前の記事で取り上げた「利口」、〈「利口」の二文字からは利息と口座くらいしかイメージできないので〉は主観。対して今回抽出したものは誰しもがツールによって共有しうる前提、客観にあたる。しかしこうして並べるだけで、本来背骨を持たないはずの個人の主観の共感ハードルが下がる。どこか円滑油のような役割も果たす客観は、そこに主観を一滴加えようと、何のことなく馴染む。赤に青一滴垂らそうと、それだけで紫にまでは至らない。はたから見ても赤のまま。

 

 じゃあその共感したもの全てが正しいか。今は過程をお見せしたので「NO」と言いやすいが、実際アドリブの連続で成り立っている日常会話、そこから得られる情報の真偽は殊更難解だ。いかんせん一つ一つ調べられるようなスピードにない。それは嵐のように訪れて嵐のように去っていく。
 何しろ対面で話すというのは、ノンバーバルコミュニケーションという、円滑な人間関係を保つ上で言葉の理解以上に重要になる巨大な要素が入ってくる。ハイスピードで交わされるやり取りの中では、その単語の整合性以上に「相手が気持ちよく話せているか」「相槌の間は適正か」「適度に質問を挟めているか」が大事であり、あくまでこの場においてのミッションは「円滑な人間関係を保つ」ことである。「あ、その言い方間違ってますよ。正しくは」なんて言おうものなら、興醒めどころか話の腰を折る結果(完全にこちら側の非)になるのである。

 

 そんなゆるゆるの土台の上で、けれども本人達の間では通じているという現象は、対比で正しいやり取りが提示されない以上、パラレルワールドにさえなり得ない。聞いている誰かが「違うんだけどなあ」と思ったところで、本人には伝わらない。それは間違った客観、あるいは個人の枠をはみ出た主観。ただ、じゃあそれが必ずしも憂いの対象であるかといえば、実はそうでもなかったりする。

 

 例えば「絆」が本来〈つないでおく綱〉だったとしても、本人達は本人達の間でのみ通じる、ノンバーバルコミュニケーションを含めた感覚一つで、その瞬間深く繋がっているのだ。並んで写真を撮って、そこに「絆」と書いた時、それはその二人にとってかけがえのない関係性を表す文字となる。女性の友情は儚い。それでも少なくともその瞬間、最も近くにいたこと、笑い合ったことを記憶するための一手段になる。並んで分け合ったカップ麺が、一般的に「大して旨くない」としても、本人達にとっては「何より美味しい」それはそれで真実なのだ。

 

 客観はあまねく大衆と繋がる。主観は理解しうる個人とのみ繋がる。開いた世界と閉じた世界。それはまるで理性と感情。バランスを取るには冷静と情熱のあいだぐらいが丁度いいのかもしれない。

 そんなゆるめな土台の話。

 

 

 

 

 

 

 

自由研究と読書感想文をいっぺんに終わらせてやんよ【2、過程】


 確かに仕事をする上では何より結果が求められるだろう。いくら「寝る間を惜しんで頑張りました」と言われたところで、こちとらそんな働き方を求めた覚えはないし、むしろそれで身体を壊されて監督責任問われた方が困る。しかしだからと言って、実際「寝る時間を削る前に無駄な時間はないのか考えたのか」などと安易に口にしてしまおうものなら、下手したら今の時代パワハラで乙です。

 

 こんにちは。自由研究始めます。今回は仕事ではないので過程とやらをフォーカスしてみようと思う。無駄を楽しむ。効率的に終えて、浮いた時間を持て余すぐらいなら、目一杯夢中を楽しもうじゃないか。ペットボトルでロケットプシャーとかやってみたかったなあ。アレ、どうやってやるんだろ。絶対盛り上がるじゃん。隣の家の小学生の男の子二人とかガーって寄ってくるじゃん。ドヤ顔したい。

 

 

【抽出】
『地獄の楽しみ方』より
〈一方「馬鹿」の反対、「利口」のほうはイメージが乏しい。そもそも使い道が少ない。画数が少ないし、「利口」の二文字からは利息と口座くらいしかイメージできないので、銀行が思い浮かぶ程度〉
フェルマーの料理』(1巻)より
〈ただ解くだけじゃ意味がないんです私は──私はそこまでの……過程が美しいか 命を削れるほど面白いかどうか〉

 

 

 過程。迷い、行き止まりを引き返し、少し進んではぶつかり、やっとこさゴールに辿り着く。ゴールは一つとは限らない。何より大事なのは自分自身が納得すること。
「好き」の大枠。その中でうろうろするのは、上がった気分にプラスアルファ。私自身クリニックで働いているが、出勤時、裏口の扉を開けると薬品の匂いがして、それだけで気分が上がる。そこから好きな仕事をさせてもらっているのだから、つくづく幸せな生き方してんなと思う。さて。

 

〈命を削れるほど面白いかどうか〉
 この〈削れる〉は「可能」以上に能動的なニュアンスを含む。「削らせてあげてもいい」それは「どうぞ」と差し出すかのような。
 命を削る。すなわち心拍数の上昇。生命の終わりを早めるような行為を代償に得るもの。それは「我慢して摂生するよりも美味いものを食べて早く死にたい」というのに似ている。

 

 ワクワクしたい。ハマりたい。
 有限とはいえ、命短し恋せよ乙女とはいえ、漠然と見れば途方もなく長い時間。私にとってのワクワクは、今回の【抽出】『地獄の楽しみ方』で挙げたような「文字から得るイメージ、その手触りを自分なりに表現すること」
 それにしても「使い道の多さ」「画数」云々は考えることがなかった。確かに分母、「そこ」から起こされるイメージの幅広さというのは、そのままその言葉の持つ柔軟性を表す。以前、同じ「馬鹿」をシーン別で表現する、というのを声優さんがやっていたのを思い出す。確かに同じことを「利口」ではできない。
「画数」というのは、どちらかというと見たまま「絵」として捉える行為。象形文字にも当たっている作者ならではの視点。確かに単純な分、ひねりようがない。馬鹿のように二文字の間に共通項も見出せない分、融通の効かなさも感じる。
 それにしても、たった80字程度の短い文中に、漢字二文字から得た感覚をぴたりと当て、収めることができるのは、さすがプロの所業。脱帽。

 

「AはBである」と暗記するのは簡単だ。でもそれはその間に「なぜなら」が挟まっていて初めて「AがB」たり得るのであって、それは人生の縮図にも思えたりする。
 いきなり乳児は立ち上がらない。寝返り、はいはい。そこから骨格の形成が進んで、ふさわしい環境があって、ようやくつかまり立ちができるようになる。個々の特性を伸ばしていく。「A=B」だけど、あの頃の自分と今の自分は同じではない。
 努力の末に今の自分があるからこそ、その自信は目に現れる。好いて好かれて。それはその人の構成成分。見えずとも感じることのできる魅力。
 力の入れ方次第でごまかしの効く結果より、ごまかしの効かない過程の方が、だから実は人を魅了するには大事になったりもする。

 

 そんなしたたかな過程の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

自由研究と読書感想文をいっぺんに終わらせてやんよ【1、養分】


「〇〇を食べたい」と思うのは、そのものが保有する成分が体内に不足していることから起こる現象だという。それはマイナスを通常に戻す行為。
 養分、という言葉がある。己の中に取り込み、高める。それは「マイナスを通常に戻す」以上にプラス。今までの自分以上になる。

 

 

hayami-desu.hateblo.jp

 

 

【抽出】
『地獄の楽しみ方』より
〈読んで面白いなぁと思うこともあるでしょう。──(中略)──その感情は、その小説がもたらしたものではないんですよ。その小説を読んだ読者である皆さんが作り出したものなんです〉
〈そもそも書き手の気持ちなんかどうでもいいんですね。書いてあっても伝わらないんですから。伝わる必要もないんです──(中略)──傑作かどうかは読者によるんです〉
フェルマーの料理』(1巻)より
〈じゃあ一つ答えてもらう──岳 フォークの温度を今日何℃でお出しした〉〈俺のところに来ないか? お前の数学的思考は料理のためにある〉

 

 サービス業は基本無形のものを扱うが、飲食もサービス業。矛盾するようだが、結果的に物質の有無は関係ない模様。
 形のない「養分」を生み出す。ただ栄養を摂取できればいいのではなく「美味しさ」「旨さ」を追求する。同じく、なくても困ることのない本。文字が読めれば、やりとりが成立すれば、目的は果たせる。それでも同じ事柄を伝えるのに、より適切な言い方を知っていれば、傷ついた人にやさしくできるかもしれない。電話越し、画面越しの孤独に、この夜を乗り切れる分くらいにはコミットできるかもしれない。

 

 養分というのは、生命の維持以上に「豊かさ」というニュアンスを多分に含む。現状のアップグレード、ある種の贅沢。人は近くにいる5人の平均と耳にすることがあるが、そういう意味でもこの辺りは敏感になっておいた方がいいのかもしれない。自分が選んだその場所で、望む人といられるか。いられないなら何が足りないのか。「それ」は限られた時間の中で正しい努力の方向が見える何よりの道標。迷わずに済む、疑わずに済むというのは、確実に到達できる深度を上げる。さて。

 

 こうも簡単に脱線してしまうので頑張って話を戻すと、ここでは読書という行為自体「そこに書かれたもの」ではなく、それを受け取る側にほぼ100%依存するという。「『面白い』のはそれを受け取る側が有能であるからして、その感情自体読み手が作り出したもの。だから傑作になれるかどうかは読み手による」と。
 まさか! と鼻で笑いながらも、オーケー。いいじゃないか。そっちがその気なら傑作とやらを作り出してやろうと息巻いて『本気で読書感想文』した結果、でかい独り言になったのが私であります。ただ、どこで何を間違えたのか未だに分からない分、同じことを繰り返す可能性は高い。また派手に転んだらそれはそれで笑って欲しい。ウソ。〈そもそも書き手の気持ちなんかどうでもいい〉どんな形でもあなたが楽しめれば幸い。

 

 京極さん自ら小説を書くのは嫌いだとしている。だからこそこんなことが言えるのかもしれない。作品は違うが、村山由佳さんの『ダブルファンタジー』で、主人公の女性が一人の男性を〈過剰な自意識と自己顕示欲を持ちながら、志澤は同時にそれらが周囲に臭い出してしまうことを極端に嫌う。まるで腋臭を気にするのにも似た、その羞恥の感覚の強さ、激しさといったら、自戒が行きすぎて自罰にまで至っているように思えるほどだ〉と評した感覚を思い出す。
 有能な人ほど誇らない。むしろ自分から遠ざけようとする。アレ、なんなんでしょうね。ちょっと何かしては「盛大に褒めろ!」とドヤ顔する私とは脳みその構成成分からして違うようだ。

 

 やりたいこととできることは違う。基本仕事と呼ばれるものは断然後者だ。好きこそものの上手なれという言葉が存在する以上、この二つが噛み合えばいいが、そうでなかったとしても、それはそれで受け入れるしかない。努力次第で芽を出す可能性もあるし、まあ仮に芽を出したとして、それがその後もずっとやりたい事たり得るかはまた別の話な訳で。さて。

 

 養分とやら。養分と称する以上、多分に栄養を含んでいる必要がある。ハンター×ハンターの蟻編のイメージ。それはじゃあ一方的に捕食する側される側に分かれるか。否。そればかりではない。双方に敬意が発生した時、生まれる関係。ライバル。相互依存。
 影響し合う。時に傷つき、それでも「その」中心を見極めようとする。敬意の発生源はどこだと目を凝らす。

フェルマーの料理(1巻)より』

 

 分かりやすい容姿に興味はない。だからいつだって入口は「自分にはない異質な何か」そうして「分からないと思うこと」自体が至福の拠点。全身の毛穴をブチ開けて刮目する価値がある。難問に挑む時と同じ。その他全てを排除する。見つけたとて捕まえられるかは別問題。当然相応の努力が必要になり、そこにたどり着くための養分を見つければ、それを求めることもあるだろう。それ自体悪いこととは思わない。

 

 飲食はサービス業。形はあるけど、同時に形のないものも売る。それは満ち足りた時間であったり、見目麗しい空間であったり。形のない養分を生み出し、その血の滲むような努力にまるで見合わない金額で提供する。生きるためか、はたまた己のたどり着きたい頂がためか。

 

 だから手を合わせる。金額の話ではない。提供されたものに見合うか、己を振り返る。
 振る舞いは。佇まいは。その高さに馴染んでいるか。
 また来て欲しいと思われるか。

 

 養分。

 捕食。刺激。食って食われて。
 認め合えるか。双方互いに必要だと思えるか。
 そのために。
 まずは美味しいものを食べよう。
 まずは自分の作品を思い上がるのはやめよう。

 

 まずはそんな高めの土台の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

自由研究と読書感想文をいっぺんに終わらせてやんよ【序】


 自分にとっての相手と相手にとっての自分が限りなく近しいこと。
 理想は敬意で繋がれるような、高め合うというよりは刺激に事欠かない関係。

 

 バラ、ガーベラ、カーネーション

 

 読書感想文、今回は異なる本から抽出した色味で、元々白だったものを私なりに染めてみようと思う。横並びのコントラスト、混じった色までも美しいと感じられるものでありますように。全5回、よろしければ最後までお付き合い願いたい。
 取り上げる作品は、文章より京極夏彦さん『地獄の楽しみ方』漫画より小林有吾さん『フェルマーの料理』(1〜3巻)内容として前者は「炎上しやすいSNSと付き合っていくための言葉との向き合い方講座」後者は「元々数学者になるつもりだった青年が数学を活かして料理人を志す」というもの。

 

 言葉と、数学と、料理。2者と言えど、内在するのは3つの要素。後者の作中に〈旨味の相乗効果は基本2つまで〉で、グアニル酸以外、3つ以上掛け合わせても相乗効果は得られない、とある。たとえ数学と料理をかっこでくくろうと、最低限私という不純物を経由する以上、グアニル酸生成は必須。とはいえ真理は変わらない。何から抽出したところで、それは第三者、読者によって自動変換される。

 

 さて、いつも通り前置きが長くなってしまった。上記2作品は文系理系の話をしたついでに選んだものであり、ここに必然性はない。純粋に私を中心として双方から素晴らしい刺激を受けたので書き残す。
 きっとあなたも好きになる。烏滸がましくもそのための礎になりたい。

 

 

【目次】

1、養分
2、過程
3、土台
4、言外
5、愛


 

 第1回は9/18(月)、以降1日置きで投稿。全5回。

 それでは、1ヶ月遅れの夏の自由研究、始めます。

 

 

 

 

 

 

 

【理想の愛を生きる】谷崎潤一郎『春琴抄』(後編)

あくまでこれも推測に過ぎないが、春琴の家の周りに「艶かしい店は近くにない」とわざわざ断りを入れていて、例えば実践に及ぶことはなくとも、客相手の商売としての「琴」「三味線」という見方をした時、佐助は始め「練習相手」だったのではないかとも思う。何せ元々「ただの手」だった位だ。そういう意味でようやくマゾヒズムの概念が出てくる。これは「本来言葉の持つ意味」というよりは「先行する印象に限りなく近づく」といった意味でだ。

 

 この後、訳あって佐助自身も40歳で盲目になる。この時の二人のやりとりは、是非実際に読んでいただきたいので割愛する。この作品のクライマックスだ。
 興味深いのはその後、立場が逆転すること。絶対の主人であったはずの春琴の態度に翳りが見え始める。それは必ずしも顔面に負った怪我のせいだけではなく、老いと共に訪れる分かりやすい価値の下落も重なる。見た目がいくら20代後半とて春琴も30代後半。測らずとも今まで美貌を武器にしてきた分、その価値が失われることに耐えられず、ふと弱みを見せるようになる。
 そんな時、佐助は取り合わなかった。取り合わない、と表現すると冷たく聞こえるが、本質はそうだ。ここでようやく佐助の本性が見えてくる。佐助にとっての春琴もまた一種の自己実現だった。主家に仕える丁稚という身分でありながら、主人の気まぐれに環境が重なり、最終盲目の最高位検校の位を与えられるまでになった。それは常に手本であり続けた春琴の功績も大きく、そのためにそんな目標がいたずらに変わってしまうことを望まなかった。現に結婚の話に折れ始めた春琴に対して頑なに拒んだのは佐助の側だったという。

 

「自分の憧れた人は、自分なんかと結婚しない」

 

 そんな、もはや現実ではない架空の春琴を存命時から見るようになっていった。既に本人も盲目なのだ。彼にとって本人さえ強く、気高いままでいてくれたらいい。

 

 もちろん想いあってのことに違いないが、あるいは自分の失った(春琴に与えた)ものの代償としての感覚が無意識に働いているのかもしれない。だからこそ二人にとっての最深は、佐助自身が盲目になったその時に集約される。一時の満足は、けれども一方でこれ以上深く潜れない、行き止まりだと気づく手立てにもなってしまった。

冷静になったのは春琴。冷静になるのを拒んだのが佐助。その明暗が深まる前に程無くして訪れた死別。そのために春琴は迫り来る不安を逃れ、佐助は見たいものだけを見て生きることが可能になった。これがハッピーエンド。理想とした対の、終の住処。その関係を現した墓は、だから一瞬を閉じ込めて、永遠に尊い。そこに耽美の極みがあると言っても過言ではない。春琴抄に描かれているのは、方向は違えど、ただひたむきに何かに向かう姿だ。中でもひたむきになれるものに出会えること自体幸運であり、その喜びを書きたかった。

 

「佐助のことも三人称で書いてあるが、著者は本人だろう」

 

 だから笑ってしまう。それは合わせ鏡のように幾重にもなって、うっかり覗き込んだ人をも巻き込んで炙り出す。ニヤニヤしながら書いている、それはあなた自身のことだ、と。

 

 ポップで読みやすく、日本語の美しさも存分に楽しめる谷崎潤一郎の『春琴抄
 まずは聞いてみることをお勧めします。「やあチリチリガン」は一聴の価値あり。春琴だけではく、その向かいで項垂れる佐助の姿も浮かぶようです。
 そうして読み終えたその時には、真っ先に浮かんだ言葉を聞いてみたいものです。

 

 

 

 

 

 

*違和感を避けるため、文中敬称を省略しています。よしなに。

 

 

 

 

 

 

 

【次回更新は

『この競技と結婚すると決めた』9月6日(水)

『独り言多めの読書感想文』9月9日(土)予定です】